尾藤監督

 
 尾藤監督が亡くなったか。ずっと闘病中というのは知っていたが…。昨年の夏に企画された箕島−星稜は、尾藤監督に捧げる1戦だったんだな。

 尾藤監督が高校野球に残した足跡は永遠である。高校野球で監督が注目されることになった先駆けと言える存在であった。尾藤スマイルに魅了されなかった高校野球ファンはいない。

 ただ、練習ではとんでもなく厳しかったそうだ。選手に、
「俺とお前達は恋愛しているのと一緒」というのが尾藤監督のモットーであった。

 箕島の凄かったところは、公立高校で超高校級の選手がいなかったのに、全国の強豪私立と互角以上に戦ったことである。甲子園でPLに2勝1敗と勝ち越していることが特筆される。

 当時のPLには、小早川、木戸、西田がいたからな。奴らに六大学野球でどれほど吐かされたことか。

 尾藤監督は人物的にも素晴らしかったと思われる。池田の蔦監督とは、甲子園で対戦後、すぐに意気投合した。箕島と智弁学園で鎬を削った高嶋監督が無名の智弁和歌山に移った時には、練習試合の申し込みを快諾したという。

 79年選抜の浪商戦をスポーツアワーで伝えた土門アナが、
「面白かったですよ、尾藤さん」と言った言葉をそのまま尾藤監督に贈りたい。

 そして、手向けとして箕島のベスト5試合とベストナインを書いておきたい。

 ・78年選抜・準々決勝
  
 箕島000101000…2
 P L 000000000…0

 事実上の決勝戦と言われた。新2年生の石井毅が好投。小早川、木戸、西田のPL打線を芸術的ピッチングで完封した。

 
 ・79年選抜・決勝

 浪商100003201…7
 箕島10210121
×…8

 壮絶な打ち合い。力と技の箕島打線が牛島を打ち砕いた。北野がサイクルヒット。

 
 ・79年夏・3回戦
 
 星稜000100000001000100…3
 箕島000100000001000100…4

 2度とないだろう最高試合。この試合を見られたことを両チームに感謝したい。

 
 ・82年選抜・2回戦
 
 明徳00000000000021…3
 箕島00000000000022…4

 超ハイレベルかつ劇的な試合。箕島が上尾、明徳、PLと、横綱チーム3連戦になったのも記憶に残る。

 
 ・83年夏・1回戦
 
 吉田0010100000001…3
 箕島0000001010002…4

 優勝候補の一角・箕島がかわい子ちゃん高校と思われた吉田にまさかの大苦戦。9回裏、自分の打席でスクイズをはずされ、2アウトランナーなしになった場面で、硯が奇跡の同点ホームラン。

 
 ・箕島ベストナイン(1977年〜1984年)

 9〔投〕石井(78年選抜・夏、79年選抜・夏)
 1〔捕〕嶋田(78年選抜・夏、79年選抜・夏)
 3〔一〕北野(78年選抜・夏、79年選抜・夏)
 2〔二〕江川(82年選抜)
 6〔三〕西川(77年選抜、78年選抜・夏)
 7〔遊〕岩田(82年選抜)
 8〔左〕宮本(79年選抜・夏、80年夏)
 5〔中〕 硯 (83年夏)

 4
〔右〕山下(83年夏)



 羽生名人−渡辺竜王の一局は、尾藤監督死去の報を知った直後だったので、半分ほど上の空であった。

 戦型は相矢倉であった。羽生名人は、先だっての佐藤九段戦は相穴熊から競り勝った。
羽生名人が何でもござれというのは、わしが麻雀でなんでもござれなのと一緒だ。

 羽生名人と渡辺竜王の対戦成績にびっくりした。渡辺竜王が15勝12敗で勝ち越しているとは。羽生名人に勝ち越している棋士って、渡辺竜王だけじゃないか。

 1987年のワールドカップを圧倒的強さで制したオールブラックスがテストマッチで南アに負け越していると聞いて驚いたことがある。その時に聞いた対戦成績も南アの15勝12敗だったように記憶している。

 当時の南アはアパルトヘイトを強行していたことで、国際大会から締め出されていた。もし南アが87年のワールドカップに参加していたら…。

 
いずれにせよ、今年のワールドカップででかい勝負をするからよ。1000点320万のレートでもいいぜ。

 羽生名人−渡辺竜王は、羽生名人が攻め続けて勝利した。解説の郷田九段によると、攻めを切らせていたら負けていたとか。

 相矢倉は、先手か後手かで紙一重だな。
←実力5級の奴が何をエラソーに言っているのか。

 今日の‘ある都市’は難しかった。ワインで甲府市かと思ったところ、武田信玄の銅像が映ったので甲府市と確信した。

 信玄オヤジは元気だろうか? もうオヤジと会うこともねぇな。

 明日も休みである。明日は選抜の研究に1日を費やしたい。


次の日へ 前の日へ
日記トップへ HPトップへ