ラッシャー木村
今朝の朝食は、果物とヨーグルトだけであった。何も金竜飛の食事を真似たわけではない。この朝食はいつものことである。
朝食を取った後、録画していた日本−韓国を再生した。ニュースも新聞も遠ざけて、結果を知らないまま見たのであった。
それにしても、お寒い試合だった。攻守にいいところがまったくねぇたぁ。
とくに中村俊輔がダメだった。だから、右サイドのMFに石川を選んでおけと言ったろ。
が、それだけ問題ではない。監督問題も含めて、構造的な問題だ。
試合を見終わった後、朝日の朝刊を読んで目を疑った。岡田が進退伺いを出しただと? そんなもん、とっくの昔に出してろ。
各スポーツの記事をインターネットで見たら、どの新聞の岡田を酷評していた。死に体、職場放棄、無責任などなど。
もう完全に空中分解だな。1次リーグで全敗するのは火を見るより明らかだ。
朝の朝刊でラッシャー木村の訃報に触れた。そうか、ラッシャー木村が亡くなったか。
ラッシャーのことは、国際プロレスのエース時代から知っている。わしは、月曜8時からのテレ東での中継をよく見ていたのだ。そして、実況の杉浦アナが好きだった。
ラッシャーが国際プロレスのエースだった頃は、どの会場もガラガラだった。茨城の大洗の大会などは、長靴を履いた漁師しか観に来ていなかった。
その国際プロレスが倒産したのは1980年である。朝日新聞に、「国際プロレス、フォール負け」という記事が載っていたのをよく覚えている。
それからほどなく、ラッシャー木村は、アニマル浜口、寺西勇を伴って、猪木の新日本プロレスに乗り込んだ。そして、猪木と国際軍団が1対3で戦うことになった。
もちろん、その辺は作られた話である。が、単純なわしは熱狂して見ていた。
古舘の、「国際はぐれ軍団は、猪木の首を狩ることのみに活路を見出しました」の実況がより熱くさせた。その古舘も出世したもんだ。
猪木との抗争が一区切りして、ラッシャー木村は新日本プロレスから姿を消した。すると、今度はジャイアント馬場の全日本プロレスに現れた。
1984年の世界最強タッグでは、馬場のパートナーがXとされ、開幕日で誰だかわからなかった。それが、入場セレモニー時に、馬場と一緒に木村が入場してきた。
これには興奮した。あのラッシャーが馬場と組んだのだから。
しかし、シリーズ終盤、馬場・木村vs鶴田・天龍の試合で、木村が馬場を裏切った。試合途中で馬場に殴りかかったのである。
その時の馬場の怒りはすさまじかった。馬場があれほど怒ったのは、後にも先にも見たことない。
それから数年、馬場と和解した木村は、馬場を兄貴と慕うようになった。試合後のマイクパフォーマンスはご存知の通りである。
ここでラッシャーのご冥福を祈りたい。
新聞を読んでから、もう1つ録画していた82年スペイン大会の西ドイツ−フランスを見ようと思った。が、画像だけ当時のもので、当時の実況が入っていないことを知って見る気をなくした。
映像を見ながらの実況は全く迫力がない。しかも、解説が加茂たぁ。
加茂は、世界のサッカー事情に全く疎い。94年のアメリカ大会でオランダの試合を解説した時、「オランダはカウンターが得意ですから」と言ったのは吐かされた。
オランダは自ら攻撃を仕掛けていくのがスタイルなんだよ。そんなことも知らないで、よくワールドカップの解説をしていたな。
現在、昼過ぎ。旅行の疲れが残っているし、昼飯を食ったら昼寝をするか。
あらためて書くまでもないが、今日は出前を取った。旅行の翌日に出勤するバカはしない。
クソ〜、今日の晴れが恨めしいぜ。富士五湖へリベンジへ行くことを誓いつつ、今日の午後を過ごしたい。
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