野村克也元監督、逝去

 
 プー太郎生活1665日目。

 野村克也という人は毀誉褒貶がある人物であった。

 亡くなって惜しむ声が圧倒的だが、それに水を差すのがわしだ。

 しかし、今日は野村元監督の悪口は書くまい。92年にヤクルトが優勝したのは、紛れもなく野村元監督の手腕によるものだったしな。

 そのヤクルト時代の直弟子は、何と言っても古田である。

 ただし、野村元監督は、
「向こうは俺のことを師匠と思ってないんやろ」と言っていたことがある。

 
「古田は年賀状もよこさん」に、古田の人間性が表れている。だから、古田の追悼コメントには、やや鼻白んだ。

 それにしても、弟子が多い人だったんな。ガルーダ以上に弟子を持っていたことは確かである。

 わしはガキの頃、野村元監督にいいイメージを持っていなかった。
アニメ・「侍…」で、番場蛮に嫌がらせをするシーンを見たからである。

 また、プレーイングマネジャー時代に自らを4番にしていたことにも、子供心に吐いた記憶がある。

 もっとも、当時は野村元監督がどれだけ凄いバッターだったかを知らなかったわけだが。

 ちなみに、73年の南海のクリーンアップは、3番・ジョーンズ、4番・野村、5番・門田であった。

 野村元監督の野球偏差値が軽く75を超えていたことは、誰もが認めていたところである。

 本人も、
「わしと深い野球の話ができるのは江夏と落合だけや」と言っていた。

 野村元監督の野球偏差値の高さは、解説者時代の野村スコープからもわかった。

 
「加藤(初)、ドーンと投げんかい」と喚いていた金田正一氏とは大違いであった。

 そういや、
「ぎゃんぶらあ自己中心派」で、「捨て牌・野村スコープ」というシーンがあったな。

 それだけ野村スコープは一世を風靡していたわけだ。TBSもナイスな企画であった。

 野村元監督は、コメントも絶品だった。

 わしは、野村元監督に
「草木皆兵」という語彙を身に付けさせてもらった。

 
「草木皆兵」の意味は、「草や木も敵の兵士に見える」である。

 野村元監督は読売戦で、その言葉を使った。つまり、審判を含めて何もかも読売の味方だったことを言ったわけである。

 それと、
「ルールブックがヒーローやな」も印象に残っている。

 95年の開幕戦だったか、桑田の快刀乱麻のピッチングの前に、8回までヤクルト打線は手も足も出なかった。

 が、9回表、桑田が飯田の頭部に死球を見舞い、危険球退場となった。そこからヤクルトは逆転勝ちし、そのコメントを出したのであった。

 それにしても、人の命は儚い。不死身に見えた金田正一氏も、何歳になってもボヤくと思っていた野村元監督も逝ってしまった。

 アカギの、
「人は皆、死ぬ。例外なんてねぇのさ」を思い起こさずにはいられない。

 ここに、野村元監督のご冥福をお祈りしたい。了

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