怪物江川 最後の一球
プー太郎生活1783日目。
あに? 東京で新たに47人が感染だと?
全く収束していないじゃないか。こりゃあ、またぞろ自粛要請が出るな。
そうしたらティップネスも閉館になる。そして、プロ野球も大相撲も…。
来年にオリンピックなど、無理も無理。そんなことは南海権左でもわかる。
今日は9時半に起きることができたので、再開された将棋トーナメントを見ることができた。
それにしても、仰々しい対局模様であった。以下がそれである。
まあ、この状況では仕方ないわな。対局できただけでも御の字だろう。
今日の対局は谷川九段-中村七段だった。
かつては一世を風靡した谷川九段も、もう何年も無位無官。若手気鋭の中村七段が勝つと思っていたが…。
それがまさかの完敗。どうも中村七段は、NHK将棋トーナメントとは相性が悪いくせぇ。
ちなみに、中村七段は早実出身である。早実OBとしては、珍しく大学を4年で卒業している。
って、小学6年生になるような奴は、今はそうはおらんて。
小学6年生といえば、競馬がヘタクソな奴だ。
「相当負けたろ」に、「全治2か月です」たぁ、「ふっ、哀れだね、どうにも」。
しかし、この土日で4万もJRAに寄付するたぁ。いくらなんでも下手すぎる。
午後からは、録画した「怪物江川 最後の一球」を再生した。
当時、江川が大フィーバーを起こしたことは覚えている。が、まだ高校野球ファンとしては覚醒していなかった。
もしわしが中学生以上だったら、サヨナラ押し出しに吐き倒れていただろう。
それにしても、皮肉なものである。江川伝説の引き合いに出される銚子商にリベンジされたのだから。
高2秋の江川は、それこそ怪物そのものだったという。ホップする剛速球に、とんでもない切れ味のカーブでは、打てんて。
高2秋の関東大会・準決勝の相手は銚子商。超満員に膨れ上がった銚子市民球場での試合だったと記録されている。
熱狂的な銚子商ファンは、江川の噂が凄くても、我らが黒潮打線なら打てると思っていたくせぇ。
それが三振の山。球場全体が水を打ったように静まり返ったそうである。
「三振してベンチに戻って来るバッターは、皆、青ざめ、ベンチで一言もしゃべらなかった」と、江川の自伝本に書いてある。
銚子商の斎藤監督も、「これは完全試合をやられる」と腹をくくった。め×ら振りしたバッターにポテンヒットが出たのは幸運であった。
江川は選抜ではまだ怪物ぶりを発揮したもの、「夏は怪物ではなくなっていた」と、銚子商の土屋氏は述懐している。
選抜前だかに江川を徹底的に走らせた監督が辞めたことが大きな原因だったようである。
「怪物江川 最後の一球」の放送は、土屋氏がNHKに提供したビデオから主に構成されていた。
って、その当時にビデオデッキを持っていた奴が居たのかよ。50万以上したと思われる。
おかげで貴重な映像が見られた。その試合の解説が松永玲一さんだったことを初めて知ったわ。
松永さんは、そんなに昔から解説をやっていたんだな。しゃべりまくる解説は相変わらずだ。
土屋の背番号は10だったのか。選抜で報徳学園に0-16で負けたことで地元で暴動が起こり、土屋がエースになったと聞いていたのだが…。
銚子商の先発メンバーに1年生の篠塚の名前がなかったのは、怪我をしていたからだったことは知っていた。
入学して3か月だった関東大会で江川のストレートをジャストミートでセンター前にヒットを打ったという逸話が篠塚にはある。
作新学院の敗因は打てなかったことに尽きる。選抜までは得点力があった打線だったのに、選抜後、打線がスランプになったのは痛恨であった。
それより、江川のピークが高2秋だったというのが惜しまれる。そのままの調子を維持していれば、プロでもとんでもない記録を作っただろうによ。
いや、読売に入団することしか頭になかったから、それはなかったか。
ともかく、あのイカサマ入団は許されるべきことではない。江川が大人の犠牲になった面はあるにせよだ。
というわけで、夕飯でうどんを2玉食った。マンモス西が隠れて食べていたのは熱々のうどんであったが、今日は冷やしうどんにした。
明日は魚にするか。魚はティップネスの帰りに西友で買う。
月曜に魚を食えば、残りの曜日は肉で良いだろう。たぶん…。了