教授に懺悔


 聞くところによると、今、ベトナムは観光地としてかなりの人気があるらしい。わしも行ってみたい気がする。

 口に合わないだろうが、ベトナム料理に挑戦してみたい。そして、アオザイを着たベトナム美人を生で見てみたい。ただし、キムラになる気はない。ちなみに、かつてタイではキムラになった。

 ベトナムと聞けば、大学時代の指導教授をどうしても思い出してしまう。

 教授の専門はベトナム地誌で、その著書には、「ベトナムの農民」、「ベトナムの少数民族」などがある。

 教授が研究のためにベトナムの部落に滞在されていたのは1960年代校半から70年代にかけてであった。ちょうどその頃はベトナム戦争が真っ盛りの時である。教授の意欲、勇気には本当に感服する。

 教授の話によると、自分の専門分野以外では怖くて入試問題を作れないとのこであった。なんで、うちの大学の入試問題にベトナムの問題が出題された時は、教授が作成されたのか思った。

 しかし、それはありえない。なぜなら、教授は10年ほど前に亡くなっているのだから。  

 それにしても、その問題はムチャクチャだった。
 
 @「朱印船が入港したことのある都市は?」
 A「稲作研究で世界的に有名な農業大学がある都市は?」
 B「世界自然遺産リストにも登録された湾名は?」を選べというので、選択肢群を見たら…。
 
 ニャチャン、クアンチ、ダナン、ダラット、ランソン、クチ、ケソン、カマウ、ファンラン、ラオカイ、カントー、ロンアン、ハロン、ミト、ホイアン、ナムディン、タインホアと、わけのわからん地名の金太郎アメ。

 わしはベトナム人じゃねぇ。そんな問題、100浪したってできんわい。だいたい選択肢の数が多過ぎるよ。

 閑話休題。その教授は実に温厚な人であった。わしが教授の授業をさぼって雀荘から出て来たところ、ちょうど教授が帰るところで出くわしてしまった。

 「うわぁ、やべぇ」目が点になったところ、教授はニコニコしながら、「キムラ君、今日は勝った?」と話し掛けてきたのであった。

 またその授業は出席を取っていなかったので、常時出席しているのは5人ほどでだったが、ある授業の時、「今日は、これからみんなで近くの喫茶店に行こう。僕の授業に出てくれているお礼をしたいんだ」と言われた時は感動した。

 そして、わしの超デタラメな卒論にも優をくれた。副担当の教授が「内容が浅いから可にしよう」と言うのを、「まあ、彼も一生懸命書いたのだから」と制して、優を与えてくれたのである。さらに、今の職場に入るのに推薦状も書いてくれた。

 そのほかにもいろいろとお世話になったが、卒業以来、疎遠になってしまった。もちろん年賀状は出していたけど。

 教授の部屋に顔を見せに行こうかなと思っていたところ訃報が…。本当に残念なことに癌を患ってしまい、闘病空しく亡くなってしまったという。

 しかし、それとは知らなかった。お見舞いに行っていないのには、今も後悔している。

 そのお別れの会が江古田斎場で行われたのであるが、その帰り、罰当たりにも程があることをしてしまった。お焼香後、何を考えたのか、江古田のフリー雀荘に寄ったのである。

 麻雀バカにも程があるというより、人間失格である。しかし、喪服を着て雀荘に入った奴なんて前代未聞であろう。当然、天誅を受けた。

 雀荘に入ったらある卓に入っていたメンバーが、「今、始まるところです。チーチャですが、いいいですか?」というので、「じゃあ、やります。トイレ行くんで、それまで代走していて下さい」と返した。

  ションベンだったのですぐに出て来たのであるが、これから入る卓に目をやったら、みんなが山を崩していた。

 「えらい早い和了りが出たみたいだな。メンバーが和了ってないかな」と思いながら卓に行ったら、メンバーが、「四風連打で親が流れました」だと。

 なんだ、そりゃ? 普通では考えられないことが初っ端から起こるとは…。

 それからその日、わしは説明のしようのないハマり方をし、大敗を喫したのであった。さすがの温厚な教授も天で怒っておられたのだろう。

 この場を借りて、心からお詫びしたい。

 そういや、卒論の口述試験の時に教授に買うことを薦められた「ベトナムの少数民族」をまだ買ってないなぁ。せめての罪滅ぼしに買いたいのであるが…。

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