渡辺監督、終春
プー太郎生活121日目。
横浜の渡辺監督の青春が終わった。まさに終春である。
「終春」は、吉川英治の「三国志」による。張飛が范彊・張達によって寝首を掻かれ、桃園の誓いの3人が劉備だけになったことを吉川英治は、「桃園、終春」と書いた。
しかし、渡辺監督は長い青春だったな。わしの青春時代は、いいことが何にもナイマンであった。
82年のスペイン大会で、イタリアが40歳のキーパー・ゾフの活躍などで優勝した。
優勝戦の放送で、解説の岡野俊一郎氏が、「ゾフが属しているユベントスは、『青春』とか『若さ』って意味なんですよね」と言ったのを受けて羽佐間アナは、ゾフのことを、「長い青春で羨ましいですね」と切り返した。
そういう当意即妙さも、羽佐間先生の持ち味であった。今は、そういうアナはいない。
渡辺監督はインタビューで、「高校野球は人生そのものだった」と言っていた。なにせ、新婚の時に選手数人を自宅に泊めていたというのだからな。
「高校野球は人生そのものだった」は素晴らしいが、「競馬と麻雀が人生そのもの」では話にならん。どうせ、先週の土日もJRAに巻き上げられたんだろ。
50年近い監督生活で渡辺監督が最も印象に残っている教え子が愛甲というのは興味深い。それほど愛甲は、渡辺監督の手を焼かせたわけだ。
愛甲は、3年生の時にキャプテンだった。むろん愛甲にキャプテンシーなどあるはずもないが、「キャプテンにしたら悪さをしないだろう」という渡辺監督の考えに基づくキャプテンであった。
キャプテンになっても、愛甲は愛甲であった。先攻・後攻を決める時のジャンケンでは、親指と人差し指でチョキを出すという相手をナメくさったことをした。
また、ライバルのジャンボ宮城とのツーショット写真を記者に促された時は、宮城に、「お前と一緒に写ると背が低く見られるから嫌だ」とゴネた。
愛甲の話はともかく、渡辺監督が監督でなくなっては、横浜高校が横浜高校でなくなってしまう。もう横浜高校が神奈川代表になることはないのではないか? 1つの時代が終わったことは確かである。
ここで、横浜高校の歴代ベストナインを考えた。
[投]松坂
[捕]小山
[一]愛甲
[二]安西
[三]筒香
[遊]高濱
[左]鈴木尚典
[中]斉藤
[右]長崎
あに? 「長崎を知らん」だと? 73年の選抜でサヨナラ満塁ホームランを打ったバッターだ。
プロでの活躍を考えたらライトは多村だが、高校時代の多村の活躍は印象に残っていないので、73年の選抜の優勝に貢献した長崎にした。
その強打の長崎も、江川にはキリキリ舞いだった。春季関東大会で江川と対戦した時、「江川のカーブに初めてバットが当たった」と喜んだほど、江川には歯が立たなかった逸話がある。
渡辺監督の最後の試合の相手として、東海大相模は最もふさわしい相手であった。お互いに切磋琢磨したのは、神奈川予選の歴史を振り返ればわかる。
渡辺監督は、原・津末・村中が東海大相模に君臨していた3年間は甲子園に出られなかった。当時は、渡辺監督にとって臥薪嘗胆の時代であった。
それにしても、今日の東海大相模は強かった。9−0たぁ。
あんだ、小笠原のピッチングは。あれじゃ、ややかわい子ちゃん打線となってしまった横浜では打てんよ。
東海大相模には、控えにも超高校級の右腕・吉田がいる。また、打線も良い。わしは、東海大相模を甲子園大会での優勝候補筆頭と考えている。
あに? 「東海大相模で琴光喜になるのか?」だと? それについては、ここでは申し上げない。
話は変わって、大阪桐蔭の敗退には吐いた。今年は例年のチームに比べて小粒だったとはいえ、履正社に勝ったし、大阪予選で姿を消すとは思っていなかった。
ただ、負けた相手の大阪偕星は、かわい子ちゃんではなかったくせぇ。そこが浦和学院の敗退と違うところである。
大阪桐蔭の敗退には「吐いた」で、浦和学院の敗退には「吐き倒れた」。そう書けば、その衝撃度の違いがわかろう。
近畿では、近江と神戸国際大付が敗れたのも意外であった。特に春の近畿大会の優勝校の神戸国際大付が聞いたことがない高校に負けたのには驚いた。
散歩には、大阪桐蔭の敗退を知ってから出掛けた。散歩中、小太郎は元気だったが、わしは大阪桐蔭の敗退で吐いていた。
車が通らない道を散歩するからいいようなものの、もっと自覚を持って散歩せんかい。
しかし、小太郎は散歩中にションベン、クソをしないな。まあ、ちゃんと歩いてくれるからいいけどよ。
今、小太郎はハウスの中でひっくり返っている。あ゛〜、わしも犬になりてぇ…。
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