1974年

・夏の大会

 
原辰徳、甲子園デビュー

 この大会、甲子園にデビューしたのがあの原辰徳(東海大相模)である。彼は監督の長男という話題性と端正な顔立ちから、たちまち人気を博した。自分も当時は関東のチームを応援していることもあり、原のファンになった。

 ただし、おやじの方はあまり好きでなかった。おやじは当時から結構不遜な態度で、監督をやめてしばらく経ったおやじに日刊ゲンダイの記者が、「なぜ監督をやらないのですか?」と聞いた時も、「だって俺が監督やったら毎年優勝だよ」とほざいていたし。

 だが、ここで、「原辰徳、津末、村中と超高校級の選手を3人も同学年に抱えながら、なぜ一度も優勝できなかったか?」と問いたい。

 さて、その年の東海大相模であるが、前評判はあまり高くなかったが、持ち前の強打と1年生左腕の村中の活躍で、準々決勝まで勝ち進んできた。そして、その準々決勝との鹿児島実戦はまれに見る好勝負となる。

 試合は9回裏に原辰徳(先発で原の従兄も出ていた)が珍しく勝負強さを発揮して、鹿実のエース・定岡からヒットを打って出塁して、同点のきっかけを作った。そして、試合は延長戦に突入したが、6時を過ぎたためテレビ放送は6時で打ち切られた。

 その後はラジオで聴いていたわけであるが、鹿実のセカンドの超ファインプレーにおけるラジオのアナウンサーの絶叫は今も耳に残っている。

 2アウト3塁で、セカンドとライトの間に飛んだ打球をセカンドがダイビングキャッチしてサヨナラ負けを防いだのである。名解説者として名を馳せた松永玲一氏が、「あの中村君のプレーは、私が見た最高のファインプレー」と述懐するほどあった。

 そして、試合はさらに進み、14回表に鹿実が1点を勝ち越すと、またその裏に相模が追いつくという壮烈な展開となり、ついに15回表に鹿実が決勝戦を挙げ、5−4で勝利した。

 この試合は、テレビ中継を打ち切ったNHKに猛抗議がいくつもきたほど見る者聴く者を引きつけた試合であった。自分にとっても、この試合はその後高校野球の熱狂的ファンになるきっかけとなった試合であった。

 ちなみに、以降、NHKはどんなに試合進行が遅くなってもテレビ中継を打ち切らないことにしたのであった。

 その後、鹿実は準決勝で山口の防府商に敗れた。しかし、それはあまりに悲痛な敗れ方であった。

 エースの定岡がケガで退場し、それを引き継いだ2年生のアンダースローの堂薗が好投し、1−1で迎えた9回裏、ワンアウト2塁。堂薗がセカンドへ牽制球を投げた。それがセンターにそれ、さらにセンターがそれをトンネルし、サヨナラ負けとなったのだった(同じような場面がドカベンの[22巻]にも出てくるが〔横浜学院戦〕、水島新司氏はこの試合を参考にしたものと思われる)。

 決勝は銚子商が防府商に7−0で快勝したが、それもそのはず。銚子商には、エースの土屋、4番の篠塚(当時2年、この大会から金属バットが導入されたが、篠塚は木製バットで臨んだ)と、投打に傑出した選手がいたのだから。

 銚子商の試合で印象に残っているのは、初戦のPL戦である。この試合、PLのエース(名前は記憶になし)は打たれ出すと極端に投球間隔が短くなり、主審から厳しく注意されていた。結局、銚子商はPLを5−1で倒したが、その1点は土屋がその大会で唯一失った点であった。

主審から厳しく注意された投手はPLの投手ではなく、平安のピッチャーだったくせぇ。

 その後、土屋は中日に進んだが、初勝利をあげるまで5年も要した。そうしたことからも、甲子園の優勝投手はプロで大成しないと言われている。



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