1977年

・夏の大会

 
1年生坂本の大活躍

 当時の参加校は41校であった。つまり、現行のような一県一代表制ではなく、人口が少なく高校の数が少ない県同士がカップリングされ、県大会で優勝した高校による代表決定戦を行っていたのである。

 当時の代表決定戦として、紀和大会、南四国大会などがあった。紀和大会は奈良県大会の優勝校と和歌山代表の優勝校による代表決定戦であり、同じく南四国大会は徳島大会の優勝校と高知大会の優勝校によるものであった。これらの県は出場校は少ないもののレベルが高いため、甲子園への道のりは今よりずっと厳しいものがあったのである。

※参加校が30数校と少ない時代は、岐阜と三重が組んで三岐(さんぎ)代表、京都と滋賀が組んで京滋(けいじ)代表というのが見られた。当時は、岐阜では県岐阜商、京都では平安や京都商がずば抜けた存在だったので、三重県や滋賀県のチームは県大会で優勝しても代表決定戦でことごとく苦杯を喫していた。1979年に比叡山高校が滋賀勢として初勝利を挙げたが、これは滋賀勢が初戦敗退を続けていたのではなく、滋賀県勢が甲子園にほとんど出場していなかったことによる。

 前振りが長くなったが、ここで何を言いたかったかというと、この年の紀和大会のレベルの高さが筆舌に尽くしがたかったということである。なにせ、選抜優勝の箕島(和歌山)、ベスト4の智弁学園(奈良)、ベスト8の天理(奈良)の中から1校しか甲子園に行けないのだから。

 この3校のうち、まず智弁学園と天理が奈良大会の準々決勝で顔を合わせた。注目は智弁のエース・山口と天理打線であったが、山口は天理打線を3安打に封じ、智弁が3−0で快勝した。そして智弁学園はそのまま奈良大会を制した。

 一方、和歌山大会は当然のことながら箕島が最有力視されていた。しかし、箕島が位置する有田市にコレラ騒動が起こり、練習の自粛というハンディを背負ってしまった箕島は打線が振るわず、和歌山大会の決勝戦で、延長戦の末、0−2で田辺に敗れてしまったのである。そして、紀和大会は智弁学園が田辺を4−1で下し、智弁学園が超難関予選を突破して甲子園に帰ってきたのであった。

 さて、甲子園大会に話を移したい。優勝候補筆頭はその智弁学園、左腕bPの松本を擁し投攻守走が揃った東洋大姫路、安定度抜群の三谷の今治西、打撃に磨きをかけた早稲田実、豪腕・小松を持つ星稜なども有力視された。また、連覇を狙う桜美林も出場してきた。

 これら6校は序盤から激しくつぶし合った。まず、初日にいきなり、智弁学園と星稜が激突した。山口と小松の投げ合いが期待されたが、立ち上がり不安定な小松を攻めた智弁学園が1、2回であげた2点を守り、2−1で押し切った。2年時にチームをベスト4に導いた小松も、結局3年時には甲子園で1勝もできなかったのであった。

 開会式の2日前に行われた抽選会で最も歓声があがったのは、早稲田実と桜美林の東京対決が決まった時である。当時は参加校を東西に分けて抽選する形式ではなかったため、前年の豊見城−鹿児島実のように近県同士の高校がいきなり顔を合わせることもしばしば見られた。しかし、さすがに東京勢同士が初戦にいきなりぶつかることは史上初のケースであった。

 試合は実力で勝る早稲田実が同点で迎えた8回表に3点を入れ、4−1で勝ったものの、何か釈然としないものが残った人も多かったのではないだろうか。現に、来年度以降は初戦の組み合わせ抽選はあらかじめ東西に分けてから行い、近県同士が初戦でぶつからように配慮されるようになったのであった。

 智弁学園−星稜に代表されるように、本大会は力のこもった投手戦が多く、完全に投高打低の模様を呈してきた。そして、3回戦で早くも大会を代表する右腕同士の対決が実現した。智弁学園の山口と今治西の三谷が顔を合わせたのである。

 両投手とも長身からの速球が武器で、山口はシュート、三谷は配給の妙をそれぞれ身上としていた。智弁も今治西も打てないチームではないが、力のこもった投手戦が予想された。が、ふたをあけると初回から今治西が長打攻勢で山口を打ち込み、一方、三谷は智弁打線を1安打に封じ、今治西が4−0で一方的に勝利したのであった。

 その今治西の勝ちっぷりを見て臆したのが早稲田実の主将・清水であった。選抜で自分達が一敗地にまみれた智弁学園を完膚なくまで叩きのめした今治西。その今治西と準々決勝で対決することが決まった瞬間、清水の顔は思い切りゆがんだという。早実のくじ運が良くないのはこの頃からだったといえよう。

 早実−今治西は、早実の主戦・谷田部が不安定なだけに、いかに早実打線が三谷を打ち込むかが注目された。

 早実打線は三谷から安打は放つが要所を締められ、奪った点は初回に4番の荒木(あの荒木大輔の兄)がスクイズを決めた1点のみ。一方、早実の谷田部も頑張り、4回まで1−1と接戦模様となった。

 しかし、5回裏、ついに谷田部がつかまり、ノーアウト満塁のピンチ。ここで2番の越智欽也がスクイズ。打球はフライになり併殺かと思われたが、前進してきた谷田部の頭をポトリと超え、内野安打となった。これで谷田部の堤防が決壊した。続く阿部に押し出し、さらに4番の武田にもタイムリーを浴び、結局この回、三谷相手に絶望的な4失点。さらに、8回に登板した選抜時のエースであった弓田もボコボコに打たれ、終わってみれば1−11という目も当てられない惨敗を早実は喫したのであった。

 今治西はまれに見る強い勝ち方でベスト4に進出したが、ここで待ち構えていたのが東洋大姫路である。

 東洋大姫路は全国一の左腕・松本を擁し、機動力を備えた打線も強力というチームであった。事実上の決勝戦と言われたこの試合は白熱した投手戦となった。そして印象に残るプレーも二つ出た。

 一つ目は、松本を襲ったピッチャーライナーである。打球を膝に受けた松本はもんどりうって倒れたが、その後根性で投げ続けた。二つ目は、東大姫路のレフト平石の決死のプレー。8回ツーアウト一塁で三谷の打球は左中間を真っ二つ。ついに今治西が先制点かと思われたが、素手でクッションボールを処理した平石のプレーにより、ランナーは間一髪ホームでアウト。

 こうして両者譲らず0−0で延長戦に入ったが、10回表にスクイズで決勝点を挙げた東洋大姫路が今治西を振り切り、決勝進出を決めたのであった。打線の援護なく敗れた三谷は今大会37イニングで3失点であったが、3点ともスクイズで取られたものだった…。

 こうして優勝候補同士が星をつぶし合う一方、決勝に出てきたのは、愛知代表の東邦高校であった。その原動力となったのが1年生エースの坂本である。坂本は当時子供だった自分が見ても紅顔の美少年という感じであり、その好投とあいまって、たちまち人気者となった。坂本の健闘もさることながら、坂本のバックにいる8人の3年生が打撃や守備で懸命に坂本を守り立てているのが感動的であった。

 勝ち進むごとに人気を増していった坂本と対決することになったのは、強豪ぞろいのブロックを勝ちあがってきた東洋大姫路である。決勝戦の予想は東大姫路有利の声が大勢を占めていた。ただし、「1年生など負けるわけにはいかない」と、必要以上に相手を挑発していた東洋大姫路の梅谷監督に不快感を持った人間も少なくなかったようだ。

 しかし、この試合も坂本は頑張った。初回いきなりノーアウト満塁のピンチを無失点で切り抜けると、持ち前の飄々としたピッチングで東洋大姫路打線を封じ、試合は1−1のまま延長戦に入った。

 10回裏、東洋大姫路はツーアウト2塁のサヨナラの場面。ここで東邦ベンチは3番の松本を敬遠させ、4番のキャッチャー・安井との勝負に出た。しかし、それが裏目に出る。史上初の決勝戦におけるサヨナラホーマーが出たのだ。狂喜乱舞の東洋大姫路ナインを横目に淡々とマウンドを降りる坂本が見事なコントラストを描いていた。

 しかし、今大会が坂本にとって最初で最後の甲子園であった。その大会の途中から起こった坂本フィーバーが彼にとって耐えがたいプレッシャーになったのであろうか?

※法政大学を卒業後、地元の日本鋼管で営業マンをやっていた坂本が営業で名刺を出すと誰もが、「ああ、あの坂本君かぁ」と目を丸くしたという。



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