1978年

選抜

 
前橋・松本、完全試合を達成

 今大会は投打にバランスの取れたチームが見当たらず、投手力の印旛、桐生、打力のPL学園、箕島、豊見城がそれぞれ穴を持ちながらも優勝候補に挙がった。

 このうち、桐生と豊見城、印旛とPLがいきなり顔を合わすことになった。とくに印旛とPLは投打のbP同士の対決と言われ、対戦が決まった時は抽選会場がどよめいたという。

 大会初日の第3試合の桐生と豊見城は、桐生の好左腕・木暮と石嶺を中心とする剛打・豊見城の対決が見物と言われた。結果的には木暮が豊見城を3安打1点に抑えるが、石嶺のセンター深くを襲った大飛球を再度処理したキャプテン・和田の大ファインプレーがなければ試合はどう転んでいたのだろうか?

※桐生は進学校であり、部員はわずか15人であった。しかし、当時のベンチ入りは14人であり、メンバーから1人をはずすことを余儀なくされた関口監督(学校では人格者として知られていた)は、身を切られる思いをしたと振り返っている。その夏も桐生は甲子園にも出てきたが、その大会からベンチ入りが15人となり、「泣く泣くベンチ入りからはずした部員を登録できたことが何よりうれしい」と、関口監督が語っていたのが印象に残っている。

 印旛−PL戦は、印旛の右腕・菊地は全国一の投手といわれた速球投手と、小早川(当時2年)が6番、西田が7番を打つという鬼のようなPL打線との対決が話題を呼んだ。試合は効果的なところでタイムリーが出たPLが4−0で完勝したが、菊地がその実力も半分も出せなかったのは残念であった。ただ、菊地の大会前の騒がれようは異常であり、気の毒な面があったことは否めない。

 PLは2回戦でも好投手の田中(南宇和)を打ち込み、西田の好投もあって、一躍本命に踊り出た。そして、準々決勝で、これも強豪の誉れ高い箕島と激突した。両者の対決は、高校野球ファンにとってはドリームマッチであり、自分にとっては、まさに化け物対決という感がした。この2チームは秋の近畿大会でも顔を合わせており、その時はPLが4−2で勝っていたのだが…。

 試合は箕島のエース・石井毅(当時2年)がアンダーハンドから芸術的なピッチングを見せ、強力無比のPL打線を手玉に取り、6安打に完封した。PLは石井にひねられたことから、夏は大きく打線を組み代えることになる。

 準決勝は桐生−浜松商、箕島−福井商の組み合わせ。誰がどう見ても、決勝戦のカードは桐生−箕島という感がしたが、両校ともここで足元をすくわれた。

 桐生は26イニング無失点の木暮が浜松商の4番・小沢に3本のタイムリーを浴び、試合内容では完全に勝りながら2−3で苦杯をなめた。

 箕島は福井商に大敗した。エースの石井が前日のPL戦で精魂つきたのか、球が真中に集まったところを福井商に打ち込まれた。また守備も乱れた。

 決勝は浜松商の左腕・樽井が福井商の強力打線を完封し、大会前の下馬評にまったく挙がっていなかった浜松商が初優勝を遂げた。この大会以来、「粘りの浜商」、「大物食いの浜商」として名を馳すようになる浜松商であるが、優勝は今のところこの選抜だけである。

 今大会で大記録が生まれたことを最後に触れておきたい。前橋高校のエース・松本稔投手が春夏を通じて初の完全試合を成し遂げたのである。

 その頭脳的なピッチングは見事の一言であったが、それ以上にインタビューでの優等生ぶりが印象に残る。一方喫した方の比叡山ナインは気の毒の一言であった。「負けて応援団に挨拶に行ったら、『夏、頑張れ』と言われ、涙が出た」という談話にはこっちの方がぐっときた。

 その松本も、2回戦の福井商戦では火だるまとなった。2回に5番の坪田に松本が大会初ヒットを食らうと野手の方が動揺してしまい、あれだけ堅守を見せた1回戦がうそのようにエラーを続発してしまったのである。結局、0−14という見るに耐えない試合で、前橋は完全試合の余韻が残るなか、姿を消したのであった。



次のページへ進む 前のページへもどる
高校野球の項目へ トップページへもどる