1978年

夏の大会

PL、奇跡の優勝


 かつての崇徳のような超強豪、江川や酒井に匹敵する怪物、坂本のようなアイドルも不在であったが、大会そのものの人気は凄まじいものがあった。決勝戦のPL−高知商の視聴率が50%を超えたというのだから、その人気ぶりがわかろう。

 今大会は、本命不在の戦国大会と言われた。そんななか、重い速球で地方大会無失点の大久保を持つ仙台育英、木暮・阿久沢が健在の桐生、大型打線の中京、選抜準優勝の強打・福井商、実力は随一とされたPL学園、選抜ベスト4の試合巧者・箕島、四国王者の高知商などが優勝戦線に残るだろうとされた。

※この年の朝日新聞の縮刷版の東京都版に、「帝京応援席を盛り上げる石橋貴明君」という記事がある


 大会は人気に違わず、好試合の連続となった。まず、大会2日目の第1試合の仙台育英−高松商は大投手戦となった。0−0で延長戦にもつれた投手戦はいつ果てることもない感じがしたが、17回裏、高松商のエース・河地の痛恨の押し出し死球により決着した。この時、マウンドで号泣していた河地の表情は今も心に残っている。

 また、大会随一の左腕とされた能代の高松と剛腕・津田がともに0−1で散った試合は、勝負の厳しさを象徴する試合として忘れがたい。

 高松は足を高々と上げるそのフォームと左腕であることから、「まるで星飛雄馬だ」と言われた。しかし、初戦に強豪・箕島と当たったのが運の尽きであった。

 立ち上がりヒット打ちの名人・嶋田が(解説の松永玲一氏は、「彼がヒットを打たない試合を見たことがないと言っていた」)が、高松の快速球をセンターオーバーに3塁打。箕島の尾藤監督は最初からスクイズしか頭になく、2番の上野山が四球に歩いたノーアウト1、3塁から、3番の石井(雅)にスクイズを指令。見事決まったこの1点が高松の死命を制したのであった。

 津田はソロホーマーで決勝点を奪われた。遊び球で投げたカーブを2年生の8番バッターの2年生・若狭にホームランされたのであった。以来、津田は常にストレートでの勝負にこだわったという。その見るからに好漢の津田が不治の病で若くして亡くなったのは悲運としか言い様がない。

 3回戦では、中京−箕島、仙台育英−高知商の優勝候補同士が早くも顔を合わせた。そして2試合とも熱戦となった。

 中京−箕島は、箕島がエースの石井毅を先発させなかったことが勝負のアヤとなった。箕島の尾藤監督は、石井が前日からの連投になること、3連投となった選抜の準決勝で石井が打ち込まれていること、中京がアンダースローを想定して練習していることなどを勘案して、2年生の速球派の上野の先発に踏み切ったのだろう。

 お互いツーランの応酬で始まった試合は、その後箕島が2点を奪い、7回を終わって4−2と箕島がリード。8回表、中京はワンアウト1、2塁のチャンスをつかむ。ここでバッターは強打の3番・栗岡。栗岡以下右打者が続くことから、ここは石井投入と思われた。が、ベンチは捕手・嶋田の「まだいい球がきています」の言葉を信じて続投させた。これが裏目に出て、栗岡に逆転スリーランが出たのであった。

 仙台育英−高知商は、好調の高知商打線が如何に仙台育英の大久保の重い速球を打つかに注目が集まった。ここでも、高知商の谷脇監督は大胆な指示を出した。

 高知商は1回戦で、北海道史上最高の打線を持つといわれた東海大四と対決したが、この時は外野手全員をラッキーゾーンぎりぎりまで下げさせるという作戦を見せた。このことによって、東海大四打線に甲子園を広く見せさせ、力みを引き出させようとしたのである。これにまんまと嵌った東海大四打線は大振りを繰り返し、12三振を食らって完全に封じ込まれたのであった。

 そして今度は、「重い速球は流すのがセオリーと言われるが、大久保の球を流そうとすると却って力負けする。だから、あえて引っ張れ」と谷脇監督は命じた。これが的を射て、高知商打線は2〜4回に5安打を集めて、大久保から4点を奪った。これにもめげず仙台育英も2点を返し反撃したが、8回、9回と連続して2アウト満塁のチャンスを逃し、東北勢初の優勝はまたしてもならなかった。

 この試合で印象に残っているのは、9回裏ツーアウト2、3塁で4番の大久保という場面である。敬遠気味にボール球を続けて投げたマウンドの森に向かって、大久保が「打たせてくれ」と叫んだ。しかし、結局、勝負してもらえず、1塁に歩いた大久保は次打者・星のショートゴロで二封されたのであった。

 準決勝第1試合のPL−中京は、球史に残る試合となった。好調な中京打線はPLの左腕西田も打ち込み、4、6、8、9回に1点ずつ奪った。一方、打線が湿りがちなPLは、さして好投手とはいえない中京の武藤を打ちあぐみ、9回表を終わって、4−0と中京のリード。誰もが中京の決勝進出を思ったが、9回裏PLは猛反撃に出た。

 先頭の西田が強引にライト線に引っ張って、三塁打を放つ。三塁へすべり込んだ際のタイミングは微妙だったが、中京を応援している自分は、「まあ、いいか」という感じであった。しかし…。

 続く柳川がタイムリーツーベース。ワンアウト後、タイムリーが出て2点差。さらにヒットが続いて、ワンアウト1、2塁。場内のボルテージは最高潮に達した。そして、チャンスの時にかかるあのPL独特の曲と「KO、中京」の声が甲子園に大きく木霊する。

 ここで中京ベンチは1塁の黒木をリリーフに送る。そして、PLの鶴岡監督は9番の中村に送らせ、1番の谷松の一打に託した。羽佐間アナも、「すべてが谷松にかかりました」と叫んだが、黒木はびびって全くストライクが入らず、谷松は1塁に歩いた。続く渡辺にもストライクが入らない。0−3になったところで、「これ以上投げらない」と黒木は半べそをかいて訴えた。

 そこで中京ベンチは再び武藤を登板させた。武藤はなんとかツーストライクを取り、ツーアウトフルベース、カウントはツー・スリーという場面となった。ここで、渡辺の打球はセカンドへきわどい当たり。セカンドはショートにトスしたが、1塁ランナーはスタートを切っており、セーフ。そのまま1塁に返したが、1塁もセーフ。この間に、スタートしていたセカンドランナーもホームに返り、ついに同点となった。続く木戸の3塁ゴロは中京の3塁手の辻が落ち着いたプレーでアウトにしたが、4−4で延長戦となったのである。

 そして迎えた延長12回裏。ツーアウト1、2塁から武藤は柳川を3塁ゴロに打ち取ったが、またまた硬くなった1塁手の黒木が落球。満塁へと傷口は広がった。この場面、今度は武藤がストライクを取れなくなった。そして、ノースリーからのボールも大きくはずれ、武藤はがっくりと腰に手をやったまましばらく動けなった。ここに、PLは奇跡的な決勝進出を遂げたのである。

 決勝戦は高知商−PLという、前評判の高かったチーム同士の対戦となった。この試合、日曜ということもあり、甲子園は超満員、NHKの視聴率も50%を超えた。

 今大会、高知商は絶好調で、好投手を次々と葬ってきた。高知商が縦横無尽に走り回ったのは、その泥まみれのユニフォームからもうかがえた。高知商は、勝ち進んでいる時はツキを落とさないよう、ユニフォームを洗濯しないのがその伝統なのだ。現在は衛生面からそのようなことは許されないが、当時は前年の今治西や翌年の池田のように、ユニフォームを洗わないで着続けるチームが多かったのであった。

 一方、PLは本来は打てるはずの打線が小早川を怪我で欠いていることもあり低調で、苦戦の連続であった。したがって、チーム力は互角でも、やや高知商と有利というのが試合前の予想であった。その予想通り、高知商は3回表に4番・青木のタイムリーで2点を先取した。そして高知商2点リードのまま試合は進み、9回裏のPLの攻撃を残すばかりとなった。

 9回裏PLの先頭打者は9番の中村。中村は森の初球を叩き、センター前へ会心のヒット。このヒットで誰もが前日の中京戦の奇跡の場面を思い起こし、甲子園は異様な雰囲気に包まれた。そして、マウンドの2年生エース・森は動揺を隠せなかった。

 ここで、背番号10のキャプテン・二宮が森を激励にマウンドに走る。しかし、森の動揺は収まらず、続くトップの谷松にはストレートのフォアボール。またも二宮が激励に訪れるが、森は我を失ったまま。続く渡辺のバントは今度は野手が硬くなり、危うく打者も生かすところだったが、なんとか打者を一塁で刺し、ワンアウト2、3塁となった。

 ここで迎えたのが今大会当たっていないとはいえ、本来は猛打の木戸。木戸はセンターに犠牲フライを打ってPLは1点を返したが、またも土壇場に追い込まれた。得てして犠牲フライは得てして流れを止めてしまうものなのだ。

 しかし、バッターの西田はニタニタ笑いながら打席に入ったきた。そして、1−1から明らかなボール球を空振りした。実況の土門アナも、「この人にしては珍しく力んでいます」と言った(西田が試合後のインタビューで、「あれはピッチャーを脅すためにわざと振った」とウソぶいたのを聞いて、「なんだ、こいつは」と思った記憶がある)。しかし、追い込まれた西田は十八番の強引なスイングで一塁線を突破。PLはまたしても神がかり的な同点劇を起こした。

 続く打者は、これも勝負強い5番の柳川。6番の荒木が左打者だけに、ここは敬遠と思われた。実際、土門アナも解説の松永氏も、再三敬遠の話しをしていた。仙台育英戦のピンチでは冷静に大久保を歩かした高知商バッテリーもそんな余裕はなく、魅入られたように高めに甘く入ってしまった。その直後、ランナーの西田が歓喜の表情でホームに還ってきたのであった。そして、マウンドで泣き崩れる森。それは、昨年のサヨナラの場面とは趣を異にする、あまりに見事なコントラストであった。

 この年以降、PLは「奇跡のPL」と言われるようになったのである。



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