1980年

選抜

 
高知商、悲願の初優勝


 前年の大会の箕島、浪商のような強力チームも、牛島や香川といったスター選手も不在というちょっと寂しい大会であった。それでも箕島−星稜の大熱戦を見て、ますます高校野球に魅せられた自分は、今大会を大いに楽しみにしていた。

 今大会の実力3強は、中西が投打の中心の高知商、強打の捕手・原率いる広陵、またも大型チームを作ってきた柳川とされた。これに続くのが甲子園での四球禍から立ち直った左腕・中条の東北、関東大会優勝の東京農大二、うず潮打線の鳴門、投手力に優れた九州学院などと見られた。そして、抽選は左ブロックに3強が固まるという波乱含みのものとなった。

※当時の高校野球人気の凄さは、秋の関東大会の準決勝の上尾−八千代松陰、同じく決勝の東京農大二−八千代松陰がTBSで放送されたことからも窺える。またテレビ東京では、東京都大会の決勝の二松学舎−帝京も録画ではあったが放映された。この試合は、0−1とリードされた二松学舎が9回裏にツーアウト満塁からトップの強気で鳴る公文が逆転サヨナラタイムリーを打つという劇的な幕切れとなった。負けた帝京ナインはもとより、勝った二松学舎ナインも号泣していたことが印象深い。  

 参加校に力の差はないといわれた大会前の評判を裏付けるように、大会は初日から接戦が続いた。そして、第2試合では、高仁−清水のバッテリーを軸に関東大会を制した東京農大二が安全パイと見られた松江商に不覚を取った。左腕・高仁の乱調がその敗因であった。東京農大二は入ったブロックから見て決勝進出が濃厚と思われていたのであるが…。

 第3試合の広陵−東海第四は、終盤に大いにもつれた。この試合では、大会一の打者・広陵の原とスタルヒン二世といわれた東海第四の西本の対決が注目された。実際、原は左のシャープな打者で、秋の広島大会と中国大会の全試合で長打を放っていた。

※西本のスタルヒン二世というのはどうだろうか? それを聞いた巨人OBの別所毅彦は、「スタルヒンに失礼だ」と烈火の如く怒っていたが…。  

 広陵のエースは、地を這うようなところから腕が出てくるサブマリン・渡辺。昨年の箕島のエース・石井のような安定感はないが、好投手の1人とされた。ただ、「投球ホームが二段モーションだ」と主審にアヤをつけられてから調子を崩したのが残念であった。

 この渡辺から東海第四は先頭打者がセーフティバントで出塁した。しかし、広陵のファースト・鳥井の隠し球でアウト。鳥井は準々決勝の諫早商戦の9回表1死1、3塁でも1塁ランナーを隠し球でアウトにしたが、1つの大会で隠し球を同じチームがやったのも記憶にないのに1人で2回もやるとは…。

※渡辺は二段モーションを注意されたことからスランプに陥った苦悩、葛藤をNHKの青年の主張で披露して注目を集めた。「広島大会では問題とされなかったのに、なぜ甲子園ではダメだったのか」というようなことを言っていたような気がする。

 試合は西本が好投を見せるものの、原のスリーランなど効果的に得点を重ねる広陵が5−2とリードし、最終回を迎えた。しかし、勝ちを意識した渡辺が押し出しのフォアボールを連発し、同点とされてしまった。ここで広陵ナインは気合を見せる。ベンチに戻ってきた渡辺に、キャプテンの原など2、3人がビンタを食らわせたのである。

 9回裏、広陵の攻撃は8番の鳥井から。鳥井は、初球をライト前へ快打。この時、集音マイクから、「よし!」という、おっさんの大声が聞こえた。このおっさん、広陵の関係者かOBなのだろう。その後、終始1人で大騒ぎしていた。

 バントで送られた2塁にいた鳥井は、バッテリーが球を後ろにそらしたのを見て3塁へスタート。と同時に、おっさんは「おわぁっと」と奇声を発す。そして、3塁にボールが送られた。一瞬セーフに見えたが、無情にもアウトのコール。おっさんの「よっしゃ」という大声が、すぐ「あぎゃぁぁ」という鶏が締め殺されるような声に変わった。  

 これで延長戦突入かと思われたが、トップの中井(現広陵監督)がフォアボールで塁に出た。ここで中井はバッテリーの鬼のようなマークを掻い潜って盗塁を成功させた。またしても広陵は一打サヨナラのチャンス。バッターは新チーム結成以来、打率が1割にも満たない小兵の川口。期待は薄かったが、バットを二握り余した川口は外角速球に食らいつき、ライト線へ持っていった。「やったぁぁぁん。イヤホホホホ。よし!」というおっさんの大絶叫の中、中井がサヨナラのホームを踏んだのであった。それにしても、このおっさんはいったい何者だったのだろう? 今もってナゾである。  

 大会4日目。自分が最も注目していた鳴門高校の登場だ。前年の池田打線に惚れ込んだ自分は打撃のチームのファンになり、鳴門の強打に惹かれていたのである。なにせ、かつて甲子園で猛威を振るった鳴門打線を知るOBが、「あの頃でも、こちらが目を見張る打球を飛ばしていたのは1人か2人。しかし、このチームには数人いる」と言っていたくらいであったから。

※打撃が売り物のチームにはいろいろと名称がつけられる。例をあげると、駒大岩見沢のヒグマ打線、銚子商・静岡・箕島・高知・高知商の黒潮打線、松商学園のアルプス打線、崇徳の原爆打線、今治西のしまなみ打線、宇和島東の牛鬼打線、鳴門のうず潮打線、鹿児島実業の桜島打線、そしてあまりにも有名な池田のやまびこ打線など。

 その鳴門の初戦の相手は兵庫の滝川。滝川のエース左腕石本は潜在能力は高く評価されていたが、秋季大会ではなかなか本領を発揮できず、それほど注目されていなかった。むしろ左打者の多い打線の方が評価が高かった。そのため、鳴門のエース島田もまずまずの好投手であるものの、試合は打激戦が予想された。

 しかし、フタをあけると滝川の左腕・石本が絶好調。速球がうなりを上げ、スライダーが切れた。鳴門には、超高校級の打者と呼び声の高かった秦をはじめ、2、4、6、8番に左打者がいたが、この左打者が石本を打ちあぐんだ。そして、頼みの3番・池渕、5番・島田の右打者も石本の速球を打てない。1回裏に1点をリードされた焦りもあったのか、4回などは、池淵、秦、島田のクリーンアップが全員ピッチャーゴロに倒れてしまった。  
 
 こうして反撃のきっかけすら作れず、鳴門は石本に完封されたのであった。解説の河合貞夫氏が、「鳴門も初戦は右投手と対戦したかったでしょうねぇ。それで打線が勢いをつけてから左投手と対決すれば違っていたかもしれません」とコメントしたが、期待していた鳴門打線が完封されたのはショックな出来事だった。  

 そして大会は2回戦へ入っていった。ここで3強の一角・柳川が姿を消した。相手は2年連続出場の尼崎北であった。  

 今大会の柳川は、5年前のチームを思い起こさせる大型チームであった(といっても、5年前のチームの方がスケールがずっと大きかったが)。エースは、名前の輝士を文字って、「テルシー」と呼ばれた中島(なかしま)。4番打者でもある中島は、投手としても長身からの速球が期待されていた。そして1番を打っていたのがファーストの石原。大柄で長打力のある左の石原は3、4番を打ってもおかしくなかったが、名将・福田監督の「大型の1番で相手を脅かす」という作戦で、1番を打たされていたのであった。これは、5年前の立花の1番に通ずるものがあった(立花は2年生の時は4番を打っていた)。  

 一方の尼崎北の西山監督は、5年前の崇徳の久保監督を想起させる態度のでかい老齢の監督であった。相手選手を呼び捨てにしたり、昨年の1回戦の勝利インタビューで威張ってみせたりするなど、実に虫が好かなかった。そういうこともあって、この試合は柳川を応援していた。

 しかし、中島が不調から3点を失い、大型の柳川打線もアンダースローの相手エース田中の術中にはまり、1点しか取れず。こうして、またしても大型チームのモロさを露呈して、柳川は甲子園で2勝目を挙げられなかったのだった。これで、ますます西山監督の天狗の鼻は伸びた。試合後、「(次の対戦相手の)中西もうちなら打てますよ」とほざいていた。

 2回戦では広陵と九州学院との一戦も印象深い。九州学院は、3年の中村、2年の園川と二人の左の好投手を持っていた(二人は登板する時は、どちらも4番を任された)。秋の九州大会では1回戦で、延長戦の末、柳川商に0−1で敗れたが、投手力を評価されて選抜されたのであった。

 広陵のエース・渡辺も、東海大四戦では9回に乱れたものの、大会一のサブマリンと評価された名投手。試合は投手戦が予想され、その予想通り、渡辺、園川の投手戦が展開された。しかし、この試合は第1試合であり、ともに関東のチームでないので、ラジオでしか聴けないのがハガかった。

 試合は、5回裏にツーアウト2塁からショートゴロの悪投で1点を拾った広陵が渡辺の好投により1−0で勝つという本当に園川には気の毒な試合であった。

※高校時代の園川は本当についていなかった。1年秋の九州大会初戦でも好投しながら0−1で柳川に敗れ、翌選抜でも0−1での敗戦。続く夏の予選も0−1で敗退し、選抜を目指した2年秋の県大会も0−1で敗れるという不運。そして捲土重来を誓った3年の夏の予選は、なんとチームが出場停止を食らい、マウンドに上ることすらできなかったのだから…。ちなみに、94年のシーズン、イチローに史上初の200本目の安打を打たれたのがこの園川であった。

 そして迎えた準々決勝、まず広陵がベスト4入れを決めた。次に迎えた試合は高知商−尼崎北。ここまで高知商のエース・中西はカーブが冴え、2試合で1失点と前評判通りの活躍であった。そのためこの試合でも中西の好投が期待されたが…。

※この中西は、水島新司の野球漫画「球道くん」のモデルである。たまたま高知を訪れていた水島新司が見たのが宿毛中学時代の中西。中学生ながらその素晴らしいピッチングに惚れ込んだ水島新司は、「球道くん」の主人公を中西球道と命名したのであった。どうでもいいことであるが、あの不知火の白新学院は、水島新司の出身中学の白新中学から名付けられた。

 しかし、この試合は中西が不調。13安打を浴びて、3点を失った。そして、チームも7回まで中西自らのホームランと8番宮本のタイムリーで2点を返すのがやっと。全員が右打者の高知商は、尼崎北のエース田中のような下手投げは不得手だったのである。  

 そして、高知商は8回裏、ツーアウト1、2塁のチャンスをつかんだ。ここで打者はこの日2安打とバッティングは好調の4番中西。なんとか打ってくれと祈っていたところ、2−2からのシュートをレフトフェンス直撃の2点2塁打。自らの殊勲打でベスト4進出を決めた中西であった。

※にしても、試合後の尼崎北の不遜監督の、「公約通り中西は打ってみせた」の談話には心底むかついたもんであった。  

 準々決勝第3試合は技巧派右腕の伊東が豪腕高山に投げ勝ち、帝京が2−0で秋田商を退け、第4試合は丸亀商が6−5で東北に打ち勝った。

 東北の中条は大会屈指の左腕と言われたが、甲子園に来るとノーコンになるという悪癖は直っていなかった。東北高校は2回戦からの登場であったが、練習でもストライクが入らない状態に陥っていた中条は、松江商戦に先発させてもらえなかった。そして、大量リードの終盤に出てきたが、やはりストライクがほとんど取れず、即、降板となってしまった。そのため丸亀商戦では登板の機会すら与えられず、チームも敗退した。見るからに朴訥そうな中条。甲子園を去る中条に最後の夏の大会では活躍してほしいと思ったものであった。

※中条はこの年のドラフトで巨人に入った。巨人時代は1歳下の槙原と親友だったという。中条は藤田監督時代の1983年の夏頃に中継ぎでやたらと登板したが、当時バリバリのアンチ巨人であった自分も、高校時代の思い入れがあるためか、中条が打たれると多少なりとも同情した記憶がある。

 準決勝第1試合は、高知商−広陵の優勝候補同士の一戦。中西の前日の不調と、広陵の渡辺が高知商の苦手なアンダーハンドということで、広陵がやや有利かと思われた。しかし、この日の中西は絶好調。しぶとい広陵打線をまったく寄せ付けない。一方、高知商はスクイズを絡め、3回表に一気に4点をあげた。これで勝負あった。中西は広陵を3安打1点に封じ、高知商は2年前の夏以来の決勝進出を決めたのであった。なお、広陵の原はこの日もツーベースを放ち、結局、全4試合にヒットを放つという活躍を見せた。

 準決勝第2試合は、丸亀商の左腕高橋と帝京・伊東の投げ合いとなった。試合は8回まで帝京が1点をリードしていたが、9回表、高橋自らが同点タイムリーを放ち、延長線へもつれ込んだ。延長戦に入って丸亀商がチャンスを迎えたが、2試合連続ホームランを打っている井(いい)が凡退するなど伊東から2点目を奪えない。そして、ついに11回裏、伊東に劇的なサヨナラホームランが出て、大会前に全く評価されていなかった帝京が決勝進出を決めたのであった。帝京の監督は、若き前田監督。しかし、この前田監督が自分にとって仇敵になるとは、当時は思ってもみなかった。

※この試合の実況は草野仁アナウンサーであった。彼はスポーツアナとしても、なかなか的を射た実況をしていたと記憶している。  

 決勝戦は高知商−帝京という本命対伏兵の対決となった。当時の帝京打線は線が細く、高知商の優勢は否めなかった。事実、帝京打線は中西の伸びのあるストレートと大きなカーブを全く打てなかった。しかし、高知商も伊東の老練な投球術にはまり、点が取れない。こうして両チームともいたずらにゼロを重ね、延長戦に入った。  

 延長10回裏、高知商はワンアウト3塁と、この試合初めてのビッグチャンスを迎えた。ここでバッターは9番の小島。スクイズも十分考えられたが、ヒッティングに出た。しかし、レフトへの極めて浅い打球。強攻策失敗かと思われたが、レフトのキャプテン黒木は右腕を負傷していた。それを見抜いていた高知商の谷脇監督は、レフトフライならすべてホームへ突入しろと指示していたのであった。案の定、黒木は満足に返球できず、三塁ランナーの堀川がホームイン。試合後、中西の良き女房役・堀川は、涙で眼鏡を塗らしていた。また、中西も、「去年、おととしの先輩達の涙を見て、来年こそはと思った」と、この優勝に喜びを爆発させた。  

 この優勝、谷脇監督も感無量であったろう。2年前、夏の決勝戦を控えて、「このまま高知へ帰りたい。この子達を傷つけたくないんです」と言っていた谷脇監督であったが、その試合では、ほとんど手中にしていた優勝旗を最も惨い形で取り逃がしたのだから…。谷脇監督にとっても歓喜の優勝であった。


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