ペレ、逝去
プー太郎生活2698日目。
11時に起きてスマホをオンにしたら、ラインを通知する音が鳴った。
わしがスマホを切っている時間に誰かがラインしてきたわけか。
3日のクソ麻雀の中止を知らせるラインか?
それは許されないぞ。役満を和了るイメトレが無駄になるからな。
そしたらムキリョクンからだった。
「ペレが亡くなりましたね」
ペレが亡くなったか。入院しているのは知っていたが…。
しかし、ラインの発信時間が午前6時7分たぁ。
休日にそんな時間に起きているということは、ムキリョクンはかみさんと海外を旅行中だな。
ペレが亡くなったことで、多くのレジェンド、スーパースターが追悼コメントを出している。
ベッケンバウアー、ボビー・チャールトン、リネカー、ロナウド、メッシ、クリスチアーノ・ロナウド、ネイマール、エンバペ、そして本田圭佑。
マラドーナの時より多いな。それからしても、「ペレ>マラドーナ」なわけだ。
ペレとマラドーナでは、何より人格面で大きな差があった。
奔放でハチャメチャだったマラドーナと違って、ペレは人格者そのもの。
そのペレはブラジルの代表監督を決して引き受けなかった。
現役時代にどんなに偉大な選手であっても、監督としてシャワシャワだったらフルボッコされるのがブラジル。
78年アルゼンチン大会の一次リーグでブラジルがモタモタしていると、時のコウチーニョ監督の葬式がリオの海岸で催されたことがあったし。
追悼コメントの中で最も心惹かれたのはネイマールのコメントである。
「ペレ以前はサッカーは単なるスポーツだった。貧しい人や黒人に声を与えた」
わしが物心ついた時は、サッカーといえば、「ペレ」だった。
「ペレ」は2文字であり、ガキでもすぐに覚えられたのも大きかったと思われる。
ただし、「ペレ」は本名でない。いわば力士の四股名、キムラ嬢の源氏名である。
「ジーコ」もサッカー名であり、本名はコインブラである。
ペレが活躍した1950年代後半から1970年代にかけての時代は、黒人差別がまだまだ酷かった。
ただ、ブラジルでおいては、黒人に対する差別はアメリカほどではなかったという。
ネイマールがそういうコメントを出したのは、自分にも黒人の血が流れているからに違いない。
ネイマールは白人ではない。色んな人種の血が入っているように見える。
果たして、スポーツ史上最高の黒人選手はペレかアリか? わしはペレだと思う。
ペレについて、「ワールドカップを3度制覇した」とあるが、実際には2度である。
というのも、2度目の出場となった62年チリ大会では、怪我で3試合目から出場していないからである。
それでもペレの代役のアマリルドが大活躍して、58年大会に続いてブラジルが連覇した。
66年のイングランド大会も、25歳のペレを擁するブラジルが優勝候補筆頭であった。
が、グループリーグの初戦で当たったブルガリアはペレの足を蹴ることしかせず、ペレは負傷した。
それで第2戦のハンガリー戦にペレは出場できず、ブラジルは1-3で敗れた。
後がなくなったブラジルは、第3戦のポルトガル戦でペレを無理に出場させたのだが…。
その試合でもペレは反則を受け続け、途中で退き、その後、ブラジルは10人で戦い、1-3で負けた。
当時は先発したイレブンの交代は一切認められていなかったのである。
ブラジルの敗退を受け、次回のメキシコ大会から選手交代は2人までOKとなり、イエローカード制度も導入された。
70年のメキシコ大会はまさにペレの大会で、ペレの超人的な活躍でブラジルは3度目の優勝を成し遂げ、ジュール・リメ杯の永久保持国となった。
それでペレは伝説となったのだが、メキシコ大会はビデオでしか見たことがない。
ジュール・リメ杯を持ったペレがサポーターに肩車されている映像も伝説の映像である。
ここにペレ氏のご冥福をお祈りしたい。
ほぉー。3月のWBCで日本は優勝候補の3番手か。
1番手は超一流のメジャーリーガーを揃えるアメリカ。2番手は打力ではアメリカに引けを取らないドミニカ。
つまり、日本にとって、アメリカかドミニカと当たるであろう準決勝が最大の山となるわけだ。
わしは準々決勝も難関だと思っている。相手がアメリカに亡命したメジャーリーガーを擁するキューバだったら相当厳しい試合になる。
今日は、午後からJ:CОМブックス上の週刊誌に目を通した。
その中で最も印象的な記事は、ベースボールマガジンの「蔦文也監督が率いた‘池高旋風’の秘話」という記事である。
そうか。2022年で池田高校は創立100周年を迎えたのか。
それで「レジェンド8人の集い」で、8人のOBが蔦監督のエピソードを披露したという。
その8人は、水野、梶田、窪、藤原、畠山、橋川、森本、岡田の8氏である。
このうち、森本氏以外はリーチ・一発・ツモでわかった。
森本氏は、「さわやかイレブン」の時の主将と知った。
「当時は高校野球ファンとして開眼していなかった」という言い訳をさせろ。
この8人の中で橋川氏の近況が知れたのが良かった。
橋川氏といえば、浪商戦で牛島に投げ勝った投手である。
蔦監督にとって、浪商に勝った試合が監督として最も快心だった試合だと聞いたことがある。
当時の池田も山本、山下、川原、岡本の4人の左のスラッガーと好投手橋川とでかなりのチーム力があった。
が、牛島-香川の黄金バッテリーの浪商の方が圧倒的に下馬評が髙かった。
それを橋川が変幻自在の投球を見せて浪商打線を完封し、池田が2-0で勝った。
それで、水野らで3連覇を狙った夏の大会で徳島を出発する際、蔦監督はナインに以下のような檄を飛ばした。
「皆も知っていると思うけどな。4年前の準決勝な。
向こうにはピッチャーやらキャッチャーやらにスターがおってな。
ほんなもん、こっちには誰もおらん。それを一丸となってぶつかっていったんや。
お前らも、そないな根性を見せなあかんぞ」
8人のOBの蔦監督のエピソードでは、畠山氏と梶田氏の話が如何にも蔦監督らしかった。
「当時はずっと準優勝で。僕の名前は準(ひとし)。だから、『名前を変えろ』と」(畠山氏)
「(新チームになった時)畠山さん、水野さんと、甲子園で優勝した時は投手が4番を打っている。だから、『お前も4番を打て』と」(梶田氏)
梶田氏は2年生の時は好打のトップバッターだったが、3年春は4番バッターとしても活躍し、86年の選抜で優勝投手となった。
1970年代、1980年の高校野球が面白かったのは、蔦監督のような名物監督が何人も居たことにもよる。
今や名物監督はユニークなコメントを発する馬淵のおっさん、平安愛に生きる原田監督くらいなものである。
というわけで、今年も残すのは明日だけ。本当に信じられん。
明日にいいことがあるわけはないし、今年もいいことは何にもナイマンのまま終わろう。了