古い話だが、1976年の春の選抜で優勝した崇徳の久保とかいうじじぃ監督は、その大言壮語で関係者の顰蹙を買っていた。
このじじぃ監督は、自分が知っている限り、高校野球の監督で最も威張っていた監督であった。確かに、当時の崇徳は、豪腕・黒田(元ヤクルト)に、山崎(現広島コーチ)、小川(元広島)、応武(早大に進学)などスター揃いの大型打線(*)という超A級のチームであった。
*その猛打ぶりから原爆打線と呼ばれていたが、その名称、まずいのでは?
だからといって、「(相手ピッチャーを)あの程度の投手ならいつでも打てると思っていた」、「どんな展開になってもうちは勝てる」など、イチイチ相手の勘に障る発言をしていいってわけじゃないだろう。
その野郎は決勝戦前のインタビューでもでかい態度で、スタジオ102のキャスターだった高梨氏を怒らせた。相手の小山高校の若色監督に、「是非勝ってください」とエールを送っていたほど高梨氏は怒っていた。しかし、決勝戦では高梨氏の願いも虚しく、崇徳が5−0で小山に快勝した。
そのじじぃ監督も、2回戦の鉾田一戦では冷や汗を絞り取られたことだろう。
1回戦でノーヒットノーランを達成した鉾田一の剛球左腕・戸田と黒田の投げ合いで、試合は8回表まで0−0。そこに、8回裏、戸田のチーム初ヒットがホームラン。弱小校が超強豪校に勝てる唯一の展開となった。
9回表も戸田が連続三振を奪った。好打のトップ山崎が三振に倒れてツーアウトランナーなしとなった時は、さすがのじじぃ監督も観念したとか。
しかし、その後、鉾田一に悪夢が待っていた。2番樽岡は何でもないファーストゴロ。一塁手が取ってベースを踏めば試合終了だったが、トンネル。続く小川のショートゴロもショートが一歩も動けずセンターに抜け、ツーアウト1、2塁。
ここで、むきになって戸田が投げ込んだド真中のストレートを4番の永田が逆転の右中間3塁打。この後、抜け殻となった戸田はさらに打ち込まれ、結局、4−1で崇徳が勝った。そして、優勝に向かって突き進んだのである。
その夏、崇徳はさらにチーム力をアップさせて甲子園に戻ってきた。なにせ、あの広島商もノーヒットノーランに抑え込まれたのだから。
投攻守走に全く欠点がなく、春夏連覇が確実視されていた崇徳であったが、監督が交代していたことが唯一の懸念材料であった。じじぃ監督は、5月の練習試合中に倒れたのだった。それを聞いた他校の連中はみんな、「ざまあみやがれ」と思ったらしい。
崇徳の夏の初戦の相手は、北海道代表の東海大四。楽勝が予想された。が、エース黒田が39℃の熱を出して先発できず、大苦戦を強いられた。この試合はなんとか10−8で打ち勝ったが、次の海星戦に0−1で敗れ、崇徳の春夏連覇はならなかった。
海星のエースは、江川に匹敵すると言われた剛腕・酒井。さしもの崇徳打線も絶好調の酒井は打てず、3塁前のボテボテの内野安打がタイムリーとなって、崇徳は姿を消したのだった。
敗れたりといえども、崇徳は広島県史上最強のチームとして、今なお高校野球ファンの胸に刻まれている。
時は流れて1993年。私は神宮球場に六大学野球を見に行っていた。
その帰り、ヤクルトのユニフォームを着た大男が2人、自分の横を通った。背番号はともに90番台であった。2人ともどこかで見た顔だなと思って、背中のネームを読んだら…。
「KURODA」と「SAKAI」。甲子園でしのぎを削った怪腕2人が、そして当時将来を大いに嘱望されていた2人がバッティングピッチャーに落ちぶれていたのだ。
ところで、じじぃ監督の現在であるが、随分と長生きしたらしい。まさに、「憎まれっ子、世に憚る」だったようである。
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