合掌・西大立目永氏


 2002年12月、高校野球の名審判としても知られた、早稲田大学名誉教授・西大立目永氏が永眠された。そこで、西大立目永氏に関することを3つ書いてみた。それによって、弔意を示したいと思う。

 西大立目氏と言えば、甲子園の審判として馴染みが深い方も多いだろう。1983年選抜準決勝の池田−明徳、同じく決勝の池田−横浜商の主審を務めた氏は、「水野君のクロスファイヤー状に右打者のアウトコースに入ってくる球とあのシュートは、高校生ではまず絶対に打てない」と言っていた。
※それだけに、その夏の大会で広島商のO投手からビーンボールまがいの死球を食らって、それまでの投球を永遠にできなくなったことが惜しまれてならない。

 また、1985年選抜のPL−伊野商の主審も西大立目氏だった。1−3とリードされたPLの8回裏の攻撃はツーアウト1塁。バッターは清原。伊野商の豪腕・渡辺智男の剛速球がうなり、清原は2連続空振り。そして3球目。目の覚めるようなストレートがアウトコースいっぱいに決まった。清原は呆然と見送り、ワン呼吸あってから氏がストライクを宣した。結局、試合はPLが敗れ、その試合で3三振を喫した清原は、その日の夜泣きながら寮で素振りを繰り返していたという。

 清原は打倒・渡辺智男の雪辱に燃えたが、その夏の高知代表は、伊野商を打ち破った高知商であった。そして、高知商のエース中山は、渡辺以上の球速を誇っていた。PL、高知商の両雄は準々決勝で早くも顔を合わせた。その試合で清原は、中山の146kmの快速球をレフトスタンド中段に大ホーマーしたのだった。

 超マニャックなファンは、1979年の夏の大会の浪商−池田の一塁塁審が西大立目氏であったことを覚えているかもしれない。

 その大会は牛島・香川の浪商バッテリーが地元ということもあって、空前の人気であった。審判も浪商びいきが目についた。

 迎えた準決勝の池田戦、0−2と2点をリードされた浪商は9回裏、ノーアウト・1、2塁のチャンス。バッターは、打者としても一流の5番・牛島。ベンチの送りバントのサインを無視して打った牛島の打球はショートゴロ。セカンドフォースアウト後の一塁への送球は際どいタイミングだったが、一塁塁審の西大立目氏は、物凄く大きなジェスチャーでアウトを宣告。さも、「俺は公平に裁いているんだ」と言いたげのように…。

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