はがすぎる出場停止


@1978年春選抜の中京


 高野連の会長が佐伯のじいさんだった頃は、ほんの些細なことが出場停止につながった。とにかく佐伯のじいさんは融通が利かない人であった。「白い巨塔」の大河内教授じゃねぇぞ。

 なにせ、この時の中京が出場停止を食らった理由は、修学旅行で他のクラブの部員がケンカした連帯責任だったのだから…。そもそも、野球部の連中はこの修学旅行に行っていなかったという。秋の中部大会を圧倒的な強さで制し、選抜に出ていたら優勝候補だったろうに。ただ、さすがに出場停止の期間は短く、夏の大会は出場が許され、甲子園で見事ベスト4まで進んだのが救いであった。


A1979年夏の帝京

 野球部員がかかわっていた事件、さらにはその学校の生徒がかかわったことだったら、まだなんとか諦めもつこう。この年、帝京は監督のしごき過ぎで出場停止になってしまった。言うまでもなく下手人は前田である。アホみたいにしごかれたうえに出場停止では、選手はハガ過ぎる。


B1981年の天理

 左の川本、右の小山、主砲の藤本など主力が超高校級なことから、その実力はPL学園(西川、吉村らの活躍で、その年の選抜で優勝することになる)をはるかに凌ぐチームと、新チーム結成以来注目されていたのだが…。部員の暴力事件で9月から1年間も練習試合すら自粛の通達を受けてしまった。いくらなんでも、これでは選手が気の毒すぎる。もう少しペナルティを軽くすることができなかったのだろうか。


C1985年春の明徳義塾

 野球部の副部長が売春を斡旋したという前代未聞の事件で、明徳が出場停止の憂き目にあったことがある。監督や部長ならともかく、副部長のことで野球部員が犠牲になるとは…。この時は甲子園でも優勝を狙えるチームだっただけに、よけい選手は無念であったろう。

 夏に出場の機会が与えられたが、その年の高知大会は史上最もレベルの高い予選大会であり、さしもの明徳も準決勝で高知商に0−3で敗れ、ついに甲子園に出場できなかったのであった。

 それから時が流れて、明徳の馬淵監督が松井に5連続敬遠の指示を出した。これに明徳の副校長が「明徳の名に泥を塗りやがって」と激怒したが、この副校長こそ、先の売春斡旋野郎である。なぜ、この人物がさきの事件で学校をクビにならなかったのかというと、この男が明徳の理事長の息子だったからだという。


D1993年春の上宮

 前年の秋、上宮は圧倒的な打力で大阪大会を制し、近畿大会も準優勝した。牧野・黒川の功打と西浦、筒井、溝下、田島の強打がミックスされた打力は、元木、種田らが猛威を振るった1987年のチームをはるかに凌ぐと言われたのだが…。

 なんと、前監督の山上氏が水泳部員に暴力を振るったことから、選抜の辞退に追い込まれてしまったのだ。夏の大阪大会は出場したが、5回戦で近大付にサヨナラ負けしてしまった。その時の選手の無念の思いは如何ばかりであったろうか?


E2002年春の敦賀気比

 超高校級左腕・内海と強力打線を擁し、北陸勢初の優勝も期待されたが、チームメートの無免許飲酒運転により、選抜の辞退を余儀なくされてしまった。事件が発覚して以来、内海はただ泣いて過ごしたという。夏の県予選は出場できたが、決勝で福井商に延長戦の末敗れ、内海の甲子園出場の夢はかなわなかった。


F2005年夏の明徳義塾

 予選を勝ち抜いて、宿舎入りしていたにもかかわらず、、部員の暴力事件と喫煙で出場辞退となった。高知に帰るナインの無念さは、この世のメジャーでは測れない。予選決勝で明徳義塾に敗れた高知高校が代替出場したが、そこまでする必要があったのか? 事件に関係のないメンバーで試合をさせるべきだっただろう。


 近年は高野連も連帯責任は取らせない方針を採っている。これはいい傾向である。とにかく事件の当事者でないのなら、出場停止にさせるのは止めてほしい。出場停止がどれだけの多くの人間を苦しめてきたかをよく考えるべきだろう。

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