入院日記

 
  以下に入院日記を書きたいと思う。記憶が曖昧な部分があるので、編年体と紀伝体の混合での記述になることをお断りしたい。

 4月7日の土曜、出勤前から腰が少し痛かった。出前を取るほどではなかったので、そのまま出勤した。

 しかし、午前10時頃から腰に激痛が走り始めた。キンカンを腰に塗っても、バッファリンを飲んでも、クソの役にも立たず。午後から姿を消すことにした。

 しかし、駅まで歩くのが、とてつもない難業であった。一歩進むだけで、激痛が脳天まで走ったのだから。まさに福本伸行ばりの牛歩であった。

 それでも、気力で高田馬場まで行った。高田馬場の鍼灸院で治療を受ければ治ると思ったからである。

 が、治療を受けた後も激痛は収まらず、鍼灸院の先生も困り果てた。

 とりあえず、田無のアパートに帰ろうと思ったものの、とてもではないが、電車に乗れる状態ではない。土曜日なので弟に車で迎えに来てもらうように電話したが、留守録であった。

 そしたら、親切にも鍼灸院の先生が、「じゃ、私の車で送ってあげますよ」と言ってくれた。そして、アパートの部屋の前まで支えて運んでもらった。

 これほど良心的な人が今までいただろうか。いや、いない。まだお礼に行っていないが、近いうちに手厚いお礼をしないといかん。

 それはそうと、その先生の治療院、そんなに患者が来ないんか? わしを送り届けている間も営業中のはずだぞ。

 その先生が帰り際に、「こりゃあ、入院もんだね。整形外科で神経ブロック注射を打ってもらった方がいいでしょう」と言った。それが後々、神の声になるとは、その時は知るよしもなかった。

 鍼灸院の先生が帰った後も激痛は続いた。それで5時過ぎに弟に電話したら、新宿御苑に針灸の達人がいるから、そこに車で連れて行ってやると言われた。

 だが、そこまで行くのがまた大変であった。激痛の中を車に乗るのがあんなに大変とは思わなかったわ。

 結局、鍼灸の達人の針も効果なし。夜11時頃、睡眠薬を使って寝ようとしたが、寝返りも打てないほど痛く、眠りに落ちるなど、全く不可能であった。

 しばらく耐えた後、高田馬場の針の先生の言葉を思い出した。そうだ、整形外科で神経ブロック注射を打ってもらおうと。

 それで、救急車を呼ぶことにした。ただ、救急隊に入ってもらうには、玄関の鍵を開けねばならない。激痛の中を1時間以上かけて廊下を這い、玄関の鍵を解除し、119番した。

 そして、救急隊が着く前に、携帯電話と充電器、財布と定期入れを身につけた。救急車は5分ほどで到着した。レスポンスタイムが短けぇ。

 玄関はオートロックになっている。それで、立つことが不可能ななか、解除ボタンを野球のバットで押した。そして、救急隊が部屋に入ってきた。

 以上、5月9日の記述はここまで



 救急隊が部屋に突入してきたのは午前5時前であった。救急隊員の数は8人ほどだったか。タンカで救急車に乗せられた時も腰に激痛が走ったので、痛みが限界だったのは確かであったろう。

 救急車の中で、救急隊員が幾つかの整形外科に連絡を取った。しかし、日曜の早朝だったので、どの病院にも医者がいなく、座薬と痛み止めによる処置しかできないということであった。

 ここで、わしは粘った。なんとか神経ブロック注射を打ってくれる病院を探してくれと。

 そしたら、三鷹の某病院がOKしてくれた。当然、その病院にGOだ。

 その病院に着いたら、運のいいことに、朝の5時だというのに、整形外科の主治医がいた。まず腰のレントゲンを撮り、血液を採取し、最後に神経ブロック注射を打った。神経ブロック注射が効くまで2時間ほどかかったが、痛みは完全に取れた。

 が、注射の効き目がなくなったら、また激痛に見舞われた。そこに、整形外科の主治医が登場した。その先生は病院の院長であり、経営者でもあるくせぇ。

 その先生の話では、血液検査の結果、白血球の数は普通は1万なのに、2万あるという。さらに、熱を測ったら、38℃もあった。ここ14年、37.5℃以上の熱を出したことがなく、平熱が35.3℃のわしにとって、38℃が如何に高熱か、おわかりだろう。

 白血球の数が異常に多く、高熱であるということで、腰に細菌が入っているという診断が下された。ただし、その説明の際、夢うつつだったわしは、座骨神経痛と勘違いしていた。

 その先生は自分の腕に自信があるらしく、「僕が武蔵野市の整形外科を仕切っている」、「経験のない医者だったら、腰に細菌が侵入したのを見落としていただろう」と、財前っぽい自慢をしていた。

 言っとくが、財前といっても、わしが言う財前は田宮二郎の財前だ。唐沢の財前など、断じて認めん。

 主治医の話によると、足の指まで痺れていたら、菌がそれだけ浸透していて、手術になっていたとか。手術の場合は、腰をメスで開いて、膿を取ることになるという。

 そしたら、1か月の入院では済まなかったろう。さらに、膿が完全に除去出来なかった場合は、車椅子生活になる可能性もあったそうだ。

 やぶねぇ。早く発見してもらって良かったぜ。

 それにしても、整形外科の名医が日曜の朝5時によくいてくれたものだ。往年の引きの強さは、まだ残っていたようである。

 話は戻って、レントゲンの撮影の後、ストレッチャーで運ばれている時に、どの部屋にするかを聞かれた。部屋代0の部屋のほか、部屋代・1日6000円と1日8000円の部屋があるという。

 そんなもん、部屋代0の部屋に決まっている。ただし、千点100円、500円、1000円のレートなら、1000円のレートを選ぶがな。

 神経ブロック注射の効果は6時間ほどであった。それで、座薬と夕食後に飲む痛み止めで痛みを抑えることになった。その夕食が…。
 

 以上、5月10日の記述はここまで。




 
病院食はまずい。しかも、野菜が中心なので、わしの口には合わない。

 だから、ある程度の覚悟はしていた。しかし、想像以上の野菜率の高さであった。

 入院した初日の晩飯は、野菜率が95%であった。翌日も同程度。「俺はベジタリアンじゃねぇ」と、何度思ったことか。

 当然、ほとんど残した。そうじゃなくても食欲がなかったしな。

 それに、食べる姿勢がハガかった。ベッドから全く身動きできないので、食事の際は、ベッドの左半分に体を寄せ、右半分に食器を置いて、横向きで食べるという難業を強いられた。

 この姿勢だと、口から食道に食べ物が垂直に降りないので、胃にも負担がかかる。その姿勢での食事が17日も続くとは夢想だにしなかった。

 病院の消灯時間は9時である。そんな時間に寝られるわけがねぇ。

 それ以上に問題だったのは、わし得意の電気毛布が使えなかったことである。その病院では、外からの布団などの持ち込みが禁止だという。

 それもあって、心療内科でもらった睡眠薬を飲んでも、全く寝られなかった。なお、心療内科で処方された睡眠薬は、弟に連絡して、わしのアパートから持ってきてもらっていた。

 夕食の時間は午後6時。夕食後、痛み止めの薬を飲んだが、午後11時頃に効き目が切れて、腰が猛烈に痛み出した。そんなもん、ナースコールだ。そして、座薬を入れてもらった。

 その座薬が効き出すまでの30分が長いのなんの。ベッドの縁にしがみ付いて、座薬による痛みの沈静を待った。

 ともかく、座薬で痛みは収まった。しかし、その座薬も午前5時くらいに効果がなくなった。

 またしてもナースコールだ。とにかく、座薬がないとどうにもならん。

 朝は6時が起床時間である。起床時間と同時に体温を測る。ところが、体温計が見つからなかった。

 記録を取りに来た看護婦にそのことを言ったら、「一番大事な時に、一番大事なものをなくされた」と叱られた。

 なんだ、そりゃ。体温計をなくすって、そんなに一大事なのか? 

 だいたい、わしは全く身動きができない患者だぞ。そんな人間に言うセリフか。

 床に落ちていた体温計で熱を測ったら、まだ体が菌と戦っているのだろう、37.8℃もありくさった。

 入院2日目から点滴による治療が始まった。なんでも、週間ほど抗生剤で菌を叩くという。

 点滴は午前10時から始まった。昨晩はほとんど寝ていなかったので、点滴が始まってすぐに眠りに落ちた。

 そしたら、点滴が終わる頃合いを見た看護婦(朝の看護婦とは別人)に、「点滴、終わっているじゃないですか。なんで、ナースコールをしてくれないんですか。他の人は終わったら、みんなナースコールをしてくれますよ」と叱責された。

 そんなことでなじるなよ。だいたい、点滴を始めた時に、「終わったらナースコールをして下さい」って言わなかったじゃないか。

 それに、言い方ってもんがあるだろ。「今度からナースコールをして下さいね」と、なぜ言えないのか。

 しかし、そこの病院の看護婦と看護助手の質の悪さは、まだまだこんなものでなかった。こんなものでは…。

 以上、5月11日の記述はここまで。



 入院して2日目も恒常的に腰が痛んだ。入院した当時ほどの激痛ではないものの、痛みで母親を喪った悲しさは飛んでいた。

 午前中、点滴をしに来た看護婦に、「痛みはどうですか?」と聞かれたので、
「恒常的に痛いです」と答えた。そしたら、「『恒常的』って、どういう意味ですか?」と言われて吐いた。これ以上はコメントせん。

 午後に携帯電話を床に落としてしまった。携帯電話は、身動きできないわしには必携品。それでナースコールで、拾ってもらうように頼んだ。

 そしたら、「物を落とさないように注意して下さい」と小言を食らった。だから、わしは身動きが取れないんだよ。物を落とすくらい大目に見ろってんだ。

 2日目の食事も野菜攻撃に苦しんだ。わしが入院した当初は、食事が野菜の金太郎アメだった記憶がする。

 その晩は、腰の痛みよりも肩甲骨の痛みに苦しんだ。不自然な体勢でメールを打ち続けたからであろう。

 それで、夜の11時頃、ナースコールで、そのことを訴えた。そしたら塗り薬を持ってきてくれた。

 肩甲骨に塗ってくれるように頼んだら、にべもなく、「自分で塗って下さい」と言われた。だから、それを塗るのがおめぇらの仕事だろ。

 仕方がないから自分で擦り込んだ。にしても、その看護婦の対応は信じられぞうだ。

 午前3時頃、腰の痛みも酷くなったので座薬を入れてもらったら、肩甲骨の痛みも引いた。座薬は痛みには万能なんだな。

 3日目の午後、元同僚が見舞いに来てくれた。その人はわしより6歳年上の人で、人格者中の人格者。その人の言葉にどんなに励まされたことか。

 3日目の夜も、夕食後の薬の効果が切れたら、腰が火のように痛んだ。それで、11時頃、座薬を頼んだ。

 そしたら、看護婦がおもむろに血圧を測った。上が100ないだと? なんでも、上が100ないと座薬が使えねぇくせぇ。

 それで、痛み止めの注射を腕に打ってもらった。しかし、痛み止めの注射はクソの役にも立たず。その後、数時間、痛みに悶え苦しんだ。

 朝方、一計を案じた。動ける範囲で運動すれば運動後に血圧が上がると。運動後に看護婦を呼んだら血圧が100を超えていて、座薬を入れてもらった。ともかく、今は座薬に頼るしかない。

 後で知ったことだが、間を6時間あけないと、次の座薬を使用できないくせぇ。それもハガかった。

 ベッド上で身動きできないので、排泄は全てベッド上で行う。小便は安楽尿器を使うが、これは楽勝でできた。

 問題はクソである。クソをする時は、容器を腰の下に入れてやるそうだ。「そうだ」と書いたのは、入院して3日経つのに、クソが1度も出なかったからである。

 クソ出しが得意のわしにとって、クソが3日も出なかったのは初めての体験であった。それで下剤を飲まされた。それでも、クソ意を感じることはなかった。

 果たして、いつクソが出るのだろうか?


 以上、5月12日の記述はここまで。



 
 入院して4日目の午前8時半。やっとクソ意を感じた。ベッドで寝た切りでクソをするのはハガい。

 看護婦にケツの下に容器を入れてもらって、終わるとナースコールで連絡して、容器を取り除いてもらい、次にケツを吹いてもらうのだ。

 わしは別に屈辱に感じなかった。が、これで自己嫌悪になる患者も多いという。

 クソを入れる容器は割と高さがあるので、ケツの下に入れる時は腰を上げないとならない。薬で腰の痛みは落ち着いていたが、腰を上げると痛みが走った。

 今回はクソが出たからいいようなものの、これでクソが出なかったら、腰の上げ損になる。実際、その後、何回かクソが出なくてハガい思いをした。

 今日は、部屋の掃除の日だったくせぇ。それで看護助手が掃除をしていたのだが、部屋に患者が何人もいるというのに、「夏のボーナスが出なかったら辞めてやる」、「今年も1円も上がらなかった」と、病院の悪口を言いまくっていた。

 どうも、その病院は労働条件が良くねぇくせぇ。経営者でもある主治医が自分の腕を自負していて、利益を1人占めしているのではないか。

 今日は少し動けるようになったとかで、病院が支給する服に着替えるように言われた。その病院では、入院患者に同じ服を着させるようだ。

 って、ザ・コンビクトじゃねぇぞ。そんなのも聞いたことがねぇ。

 今日からリハビリが始まった。リハビリといっても、ベッドの上でできる軽い運動だけであった。
 
 リハビリの先生は感じのいい人でホッとした。って、病院関係の人間は、患者に安心感を与える人間がほとんどなのが当然なんだよ。

 夕方、サークルの後輩のドクターが見舞いに来てくれた。ドクターの差し入れはゲンダイであった。

 これは助かった。昼寝以外はやることがなかったからな。仕事が終わってから飛んで来てくれたドクターには、あらためて感謝したい。

 その病院には、個々のベッドの横にテレビがある。しかし、1枚1000円のテレビカードを購入しないと見られない。

 そうじゃなくても、くだらないテレビ番組に用などないのに、誰が金を払ってまで見るか。それに、テレビなら携帯のワンセグで見られる。

 ワンセグのおかげで、NHKで始まった昼間のクイズ番組を知ったのは僥倖であった。わしは一般人が出るクイズ番組でないと、クイズ番組は見ない主義なのだ。

 その晩も寝られなかった。そして、腰に激痛が蘇ったので、11時半頃に座薬を入れてもらった。

 しかし、その数時間後、地獄を味わうとは、その時は知る由もなかった。


 以上、5月13日の記述はここまで。




 午前、5時半頃、また腰が強烈に痛んだ。それで、座薬を持ってきてもらうようにナースコールをした。そしたら、「6時が起床時間ですから、30分待って下さい」と言われた。

 ふざけるな。何のために30分待たせるんだ。患者が激痛を訴えているのに、すぐに持って来ない時点でナース失格だ。

 もちろん、そいつは、11時半に座薬を入れてくれた看護婦とは別人だ。

 6時過ぎに座薬を待たせた看護婦が現れ、体温と血圧を測った。そこで、あらためて、「腰が痛くてたまらないんです。座薬をお願いします」と懇願した。

 それに対する返答は、「わかりました。でも、ちょっと待って下さい」だった。しかし、それから30分経っても、持って来る気配が一向になかった。

 6時45分。ついにわしはキレた。ナースコールで、「てめぇ、いい加減、持って来い」と言う決意をしたのである。

 その刹那、その魔女みたいな顔をしたその看護婦が座薬を持ってきた。本当に、その刹那であった。もしそんなナースコールをしたら、後々、どういうことになっていたのだろうか? 

 それにしても、座薬を要請してから、1時間15分も待たすって、どういうことだ。他の看護婦は、ナースコールと同時に持ってきれくれたぞ。

 完璧に頭にきたので、院長の回診時に、その看護婦のことを訴人することにした。しかし、そいつは名札をしていなかった。

 さらに、院長の回診も週に1度か2度。結局、訴人のタイミングを失ってしまった。

 今日はリハビリの2日目であった。ベッドでの軽い運動の後、歩行器を使って歩くことも訓練するという。

 ところが、歩行中、失神してしまった。気がついたらベッドの上にいた。

 どうやら血圧が低くて、貧血を起こしたくせぇ。役満を打って気絶したことが何度かあるが、生まれて初めて真に気絶するのを体験したわ。

 今日は、午後からマイノリティが見舞いに来てくれた。差し入れは、ゴルゴ13・第175巻、テルマエ・ロマエの第1巻、グラゼニ・第1巻の3冊であった。

 ゴルゴ13ファンだったわしも、最近は全く読んでいない。冷戦が終結し、中東問題も小競り合い程なので、ネタ枯れ気味の感が拭えないからである。

 ゴルゴ13・第175巻に収録されていた3話は、いずれも脚本に協力者の名前が記されていた。さすがのさいとうたかをも、寄る年波には勝てないのだろう。

 テルマエ・ロマエとグラゼニは、すこぶる面白かった。特にテルマエ・ロマエは傑作だと思った。

 ちったぁローマ帝国時代の知識があるので、より面白く感じた。テルマエ・ロマエが阿部寛主演で映画化されているくせぇから、腰が完治したら映画館に行きたい。

 グラゼニを読んでから、プロ野球の見方が変わった。もちろん、アンチ読売であることは不変だ。

 夜は、相変わらず寝られんかった。座薬も欠かせない。いったい、この地獄がいつまで続くのであろうか? 

 以上、5月14日の記述はここまで。




 もうこの辺になると、日や曜日の感覚がなくなる。それで、福本伸行の「銀と金」のある場面を思い出した。

 大博打に負けた大学教授が、勝者である大金持ちの陰険なじぃさんに飼われているシーンである。大学教授は地下の檻に入れられ続け、時間を消される。すると、徐々に脳に異常をきたしていく。わしもそうなるのか? 

 この日も、午前10時頃にクソ意を感じた。それでナースコールをして、便器を持ってきてもらった。終わってまたナースコールで看護婦を呼び出したら、若い看護婦が来た。

 そいつは、わしのケツを吹きながら、「あ〜、汚い」、「うわ〜、汚い」と騒いでいた。

 てめぇ、ぶん殴るぞ。普通、看護婦がそういうことを口にするか。

 その時点で看護婦失格だ。身動きできない患者の心情を少しは考えろ。とにかく、心ない看護婦がその病院には多過ぎる。

 その日は土曜日ということもあって、まず、画伯が来てくれた。画伯には、唐揚げ、靴下、カットフルーツを見舞い品として頼んだ。

 相も変わらず野菜攻撃に遭っていたわしは、唐揚げを是非とも食べたかったのである。カットフルーツはビタミン不足を補うためだ。別に内臓疾患で入院しているわけではないのだから、何を食っても文句は言わさん。

 しかし、看護婦に見つかったらハガいことになっていたろう。隠れてうどんを食っていた西のようになっていたのは確実だ。

 靴下を買ってきたもらったのは、わしは自分の足の裏を人に見せない主義だからである。わざわざ靴下を買ってきてくれた画伯には、この場であらためてお礼を言いたい。

 それから少しして、書記長とムキリョクンが来た。2人とも、入院までの壮絶な経緯に驚いていた。

 2人からは、ジュース、カットフルーツ、唐揚げをいただいた。それほど、わしは唐揚げを食いたかったのである。

 わしは、今日の3人が羨ましい。ていうか、妻子がいる奴が羨ましい。「奥様は魔女」のように、普通の恋をして、普通の結婚をしておけば良かったと、今さら後悔しても遅い。

 点滴は、午前10時と午後4時に行う。わしの場合は毛深いうえに、血管が浮かびにくいとかで、針を刺すのが難儀だという。

 それは、どこの病院でも言われてきた。うまい看護婦なら1回でできるのだが、何回か刺し変えられたこともある。その辺は、うまい・下手が如実に出る。

 夜は、相変わらず、ほとんど眠れん。心療内科でもらった睡眠薬も万能ではないようだ。

 それがショックであった。帰ってきたウルトラマンがブラックキングにウルトラブレスレットをはじかれた時の気持ちがよくわかったぜ。

 薬が切れると腰が痛む、不眠症、母親の思い出に苛まされるの三重苦。今回の入院がこれほど苦しいとは…。

 以上、5月15日の記述はここまで。




 入院してから9日目。夢うつつの中、母親の夢を見た。心身ともに弱っている身に、これはつらかった。

 さらに追い打ちを掛けたのが、当日の血液検査の結果発表であった。結果が良くなかっただと? それで点滴の期間が延期、つまり入院が長引くことになったのである。

 また、ションベンをした時に粗相をして、看護婦に小言を食らったのも堪えた。9日ずっとベッドで仰向けなことに、もう完全に心が折れた。

 そこで、職場にいるはずのとっつぁんに電話をした。「はず」と書いたのは、とっつぁんも、よく出前を取るからである。

 そしたら、今日はいた。そして、涙ながらに、1人で見舞いに来てくれるように頼んだ。

 そしたら6時に登場した。とっつぁんを見るや、涙があふれた。いい歳こいて、わしも甘ったれてんじゃねぇよ。

 とっつぁんは、人の話を聞くのがうまい。その辺は、号泣組翁とは大違いである。

 ただ、とっつぁんに連絡がつきにくいのがハガい。きょうび、携帯を持ってない奴なんていねぇよ。とっつぁんが携帯を買わないのは、かみさんに携帯であれこれ命令されるのが嫌だからだそうだ。

 とっつぁんに話を聞いてもらって、幾分か気分が楽になった。退院したら、そのお返しに、かみさんの愚痴を聞いてやろう。

 その晩、胃痛で寝られなかった。やはり横向きで食事しているのが良くないのだろう。

 ナースコールで胃痛を訴えたら、とりあえず胃薬を飲まされた。その日の当直が座薬で意地悪をした看護婦でなくて良かったぜ。

 わしの記憶では、その次の日だったと思うが、午後2時頃、クソ意を感じてナースコールをした。

 「はい、わかりました」との返答があったのに、5分経っても誰も来ない。10分過ぎてもシカトされたまま。結局、看護婦が来ることはなかった。

 クソ意が引っ込んだから良かったものの、とんでもない看護婦だ。もしベッド上でKOされていたら、わしがどやされるのは火を見るより明らか。そんなことになったら、イエス=キリストのようなわしでも激怒していただろう。

 ちなみに、その一部始終を義妹が見ていた。さすがに呆れけぇっていたわ。

 その日も眠れず、つごう10日連続で熟睡できていない。野菜中心の食事をほとんど残しているのと相まって、ほとほと入院しているのが嫌になってきたわ。

 この頃になると、毎日打っている筋肉注射が効いているのか、腰の痛みがそれほどでもなくなってきた。それで座薬に頼らずに済むようになった。座薬でまた嫌がらせを受けたらシャレにならん。

 腰痛が落ち着いたので、うつぶせになるこも出来るようになった。うつぶせで、弟が差し入れてくれるゲンダイを読めるのは大きい。

 そして、クソも朝の10時前後に、1日1回出すことが習慣化してきた。入院前のように、1日に4回も5回もクソは出ていたら、どれだけ看護婦にひんしゅくを買っていたことか。

 18日(水)は、上司が見舞いに来る予定である。仏の上司だから、陰険なことを言われることはないだろう。

 以上、5月16日の記述はここまで。




 朝10時頃、入院患者の1人と看護助手のばばぁが怒鳴り合いを始めた。掛け布団を1枚にするか2枚にするかで揉めていたくせぇ。

 そんなもん、患者が1枚でいいって言っているんだから、1枚でいいじゃないか。ばばぁが最後に、「なんて頑固なんだろ」と捨て台詞を吐いたのには驚いたわ。

 今日の部屋担当の看護婦は、元気があっていい人であった。年は30代半ばか。その人は見た目も悪くない。

 それで点滴の際、つい、「12月に母親を亡くしたショックで、菌に負けたようで」と、甘えてしまった。

 「私も両親がいないから、気持ちはわかりますよ。お互い、頑張りましょうね」と優しく言われ、グッときてしまった。この頃が気持ちが最も滅入っていたのは確かである。

 しかし、その人の左手薬指には結婚指輪があった。世の男がそんな人を放っておくわけがないわなぁ。

 今日は珍しく主治医が午後にちょこっと病室に顔を出した。それで、「頭だけでも洗って欲しい」と申し出た。

 「今の子は、みんな、そうなんだよね。だけど、今、頭を洗ったら、炎症を起こす可能性があるからダメだよ」と言われた。

 おいおい、「今の子」って、わしは何歳なんだよ。だいたい、あんただって、わしとそんなに歳が変わらんだろうが。

 ともかく、風呂に入れないのはハガい。つごう10日は入っていない。ベッド上でしか身動きできないわしが体を洗えるのは、いつの日になるのだろうか? 

 夕方6時過ぎ、相変わらずの野菜攻めの夕食に難儀している時に、上司と大酒飲みのおっさんが登場した。2人とも、わしより10歳年長である。

 2人とも、わしがベッド上から身動きできないことにしきりに同情していた。そして、「やることがない時は、どうしても母親のことを思い出してしまうんです」と訴えたら、「あ〜」と2人でハモった。

 それで、またどっと涙が出た。このひ弱い性格を何とかしてくれ。

 上司はわしの状態を見て、「ゴールデンウィーク明けまで休んでいいよ」と言ってくれた。この言葉にどんなに救われたことか。早く退院しようという焦りがピークだったのも、この頃だっただからな。

 上司のおかげで、その晩は入院以来、初めて熟睡できた。そして、寝るコツも掴んだ。前日までは、消灯時間の9時と同時に寝ようとしていたのがいけなかったくせぇ。

 しかし、翌日のクソで看護婦の不機嫌攻撃を食らうことになるとは、その晩は思いもよらなかった。
 
 以上、5月17日の記述はここまで。




 19日(木)も、9時過ぎにクソが出た。毎度のことながら、ケツの下に容器を敷いてクソをするのはハガい。

 クソが終わったのでナースコールをしたら、若い看護婦がやってきた。そいつは、クソ容器を持ってきた看護助手とは別人であった。

 その若い看護婦は、わしが「大便が終わりました」と言ったのを、「食事が終わりました」と聞き違いしていたらしく、クソの後始末と知って、急に不機嫌になった。

 わしのケツを拭く時も、「ちゃんと横を向いて下さい」ときつく言う不機嫌攻撃を繰り出した。そして、帰る際、「あ〜、嫌になっちゃう」と捨て台詞を残して去っていった。

 いったい、その病院は、看護婦にどういう教育をしているのか。それより、おめぇら、本当に戴帽式でキャップをもらったのか。本当に看護婦の質が悪過ぎる。

 昨日、同僚の大酒飲みのおっさんが週刊誌を3誌差し入れてくれたので、午前中は暇が潰れた。3誌の中では、週刊ポストがダントツで読み応えがあった。さすがに、相撲協会を糾弾し続けただけのことはある。

 わしに不機嫌攻撃をしくさった看護婦は夜勤だったので10時頃に帰ったが、今日の部屋担当の中年看護婦もひどかった。いたわりの言葉の1つもなく、終始、仏頂面であった。思わず、せいうちにメールで、「今日の看護婦はハガい」とメールしたわ。

 その日の午後、2人続けて同部屋に入院してきた。そのうちの1人は、わしの隣のベッドになった。

 無愛想な中年看護婦がそいつにあれこれ聞いていたが、若いのに奥さんが他界しているという。それを聞いて気の毒に思った。

 だが、そいつとは退院まで一言も口を聞かなかった。看護婦や看護助手に馴れ馴れしい口を聞くのがちょっとな。それに、夜は寝られないのか、人の迷惑になるようにガサガサしていたのも気に入らなかった。

 そいつは、翌る日に手術をすることになった。そいつはダンス教室の講師だそうだから、足の具合が良くならないとまずいくせぇ。

 もう1人の入院患者は、中2の少年であった。体育の時間に鉄棒から落ちて、腕の骨を折ったとか。体育の教師は、まっつぁおになったことだろう。

 少年の母親がすぐに病室に飛んできた。少年よ、お母さんを大切にしろよ。絶対に別れの時が来るのだから。

 今日の夕方、血液検査の結果が伝えられた。まだ数値が良くならないだと? なんだか受験に失敗したような気分になった。

 次の検査結果の発表は月曜か。もうこれ以上浪人したくねぇ。月曜こそは受かりたいものである。

 以上、5月18日の記述はここまで。




 主治医は精力的に働いている。今日は、2連続でオペをするという。その2つのオペは、昨日、同部屋に入院してきたダンス教室の講師と、手の骨を骨折した少年のオペである。

 オペの前に血圧を測るくせぇ。で、わしの隣にいるダンス教室の講師の血圧を測定したら、上が200近くあるという。オペを前に緊張しているのはわかるがよ、肝っ玉の小せぇ奴だ。

 わしの血圧は、依然として低い。上が100あるかないかたぁ。そんな血圧で本格的なリハビリに耐えられるのか?

 翌日の土曜、すなわち、4月14日の午後2時に、競馬がヘタクソな奴が見舞いに来た。

 奴の差し入れは、大量の麻雀漫画であった。全部で40冊。それは有難い。鬼のように時間を持てあましていたのでな。

 それはいいけどよ、滞在していた2時間中、ずっと競馬新聞と携帯電話に首ったけって、お前は何をしに来たのか? だいたい、土曜の2時から全レースを買ってんじゃねぇよ。

 当然の如く、ほとんど外していた。だから、何度も言っているだろ。お前に競馬の才能はないって。

 まあいい。大量の麻雀漫画を持って来てくれたことだし、完治したらメンツになってやろう。

 奴が持ってきた麻雀漫画の中でも秀逸だったのは、「天牌・外伝」と「ミリオンシャンテンさだめだ!!」である。作風は全く異なるが、それが良かった。

 「天牌・外伝」の中でも白眉だった話は、やむにやまれずに殺人を犯した息子がいつか帰って来ると思って、息子が出所した日から何年も毎日、田舎の駅で終電までベンチに座り続けた母親の話である。涙なしでは読めなかったわ。

 「天牌・外伝」は傑作揃いなので、麻雀を少しでも嗜む奴に一読を勧めたい。

 「ミリオンシャンテンさだめだ!!」は、片山まさゆき作の漫画である。が、決してギャク漫画ではない。

 個々の登場人物に味があり、闘牌シーンも非常にクオリティが高い。片山まさゆきが福本伸行よりも雀力があるのは疑いようがない。福本伸行の作品は、イカサマがベースになっているのだから話にならん。

 「天牌・外伝」を読んでいる途中で消灯時間になってしまった。スタンドの電気をつけて読み続けられるが、他の入院患者の迷惑になるから、それはよした。さすが、わし。

 明日は「天牌・外伝」を完読するか。ようやく楽しみができたぜ。しかし、翌朝、わしを激怒させる出来事が起こるとは思ってもみなかった。

 以上、5月19日の記述はここまで。




  翌朝、体温と血圧の測定が終わり、一眠りしようと思った。そしたら、安楽の容器を替えに、ばばぁ看護助手がカーテンを開けて、わしのベッドに近づいてきた。

 そしたら、なんと、「右足がベッドから出てますよ」と、わしの右足を手払いしやがったのである。大きく出ているのはまだしも、少ししか出ていねぇじゃねぇか。

 それより何より、わしはベッドから身動きできない患者だぞ。それを手払いするとは言語道断だ。

 完全に頭に血が上った。怒鳴りつける寸前まで行ったが、全理性をもって抑えた。

 わしのケツを拭く時に「あ〜、汚い」と言った看護婦や、座薬で意地悪を看護婦も酷かった。しかし、そのばばぁ看護助手だけは絶対に許せん。わしが若い頃か、もっと自由が利く身だったら、ただでは済まなかったろう。

 あまりに頭に来たので、院長でもある主治医に、そのばばぁ看護助手以下、ロクでもない看護婦のことを訴人しようと思った。

 が、ほとんどの看護婦、看護助手が名札をしていない。それでは、どうにもならん。

 しかし、そんな病院があるかよ。それからしてもダメだ。

 怒りを鎮めるために、「ミリオンシャンテンさだめだ!!」を読み出した。ストーリーがユニークだったので、多少は怒りが減じたわ。

 午後に弟が来た。それで、そのばばぁ看護助手のことをぶちまけた。「随分、元気になったじゃないか。でも、お前、絶対にケンカするなよ」と言われた。

 いや、それでも、あのばばぁ看護助手だけは許し難い。退院したら、お礼参りをしてやる。

 弟が帰った後、そのばばぁ看護助手のことを思い出した。前に患者と怒鳴り合いをしていた奴だ。よくもまぁ、そんな奴が採用されたもんだ。

 それにしても、体の自由が利かないのはハガい。そうでなかったら、ばばぁ看護助手の胸ぐらを掴んでいたろうに。

 そこの看護婦の質の悪さからして、大地震が来たら、患者を放っておいて、てめぇらが我先に逃げ出すんじゃないか。

 ましてや、クレージーゴンが病院に迫って来たら…。クレージーゴンが病院に近づく中で、逃げもせずに少年の手術を続けた医師は立派としか言い様がない。

 あに? クレージーゴンを知らないだと? ウルトラセブンのDVDをレンタルしろ。

 明日は血液検査の発表だ。果たして、合格掲示板にわしの番号があるか? 

 なかったら、いい加減、シャレにならんぞ。ともかく、明日の合格発表を待ちたい。

 以上、5月20日の記述はここまで。

 


 翌日、午後から、せいうちが見舞いに来てくれた。午後半休を取ってまで、わざわざすまん。

 「差し入れは何がいいか?」と聞かれたので、「ゲンダイ」と答えた。それに吐いただと? ゲンダイは、心ある奴の必読紙だ。

 せいうちは、競馬がヘタクソな奴が持ってきた大量の麻雀漫画を見て、また吐いた。いいんだよ、暇つぶしになるんだからよ。それより早く雀界に復帰しろ。

 麻雀漫画以外にあった唯一の本が「誰が小沢一郎を殺したか」で、せいうちは、さらに吐いていた。

 「誰が小沢一郎を殺したか」は、日本の裏の部分を正鵠に射た名著だ。仕事で忙しくても読め。

 せいうちは神奈川在住である。それで、電車の中で、いろんな中学の生徒を見るくせぇ。

 横浜や横浜隼人の中学生はガタイがいいそうだ。対照的に、栄光学園の中学生は羽生軍団か。まあ、そうだろうな。

 せいうちがいた時に検温があった。無愛想な看護婦に、「あれは鼻血野郎だよ」と言ったら、「ああ、見た瞬間にわかったわい」と、せいうちも、そのダメさを見抜いた。

 せいうちとは、久々に2人で面と向かって長く話した。入院以来、最も心が和んだことは確かである。

 夕方、いよいよ血液検査の合格発表だ。わしの番号は…。

 どこにもねぇ。これで4浪が決定か。中には23浪の奴もいるからな。わしなど可愛いものよ。

 が、これでまた退院の日が伸びた。リハビリもあるし、ゴールデンウィーク後に退院できるか、いよいよ怪しくなってきた。

 火曜は、終日、麻雀本を読んで過ごした。それでも、時間を持て余す。さらに入院が長引くようだったら、競馬がヘタクソな奴に他の麻雀漫画を持って来させるか。

 水曜の午後6時、号泣組翁が来てくれた。水曜はノー残業デーなので、翁としても、心置きなく来れたのであろう。何せ他の日は残業をしないと心が休まらない御仁だからな。

 翁は、わしのベッドに近づくなり、顔をしかめた。どうも、わしが臭かったくせぇ。

 しょうがねぇだろ。風呂に入れないんだからよ。

 翁は、人の倍以上に鼻が利く。誰かが香水を変えてもすぐに気がつくほどである。

 そうだろう、そうだろう、翁の話は、終始、職場の話であった。それはそれで、いろんな情報が知れて良かったけどな。

 何より会話が成立してホッとした。やれば出来るじゃないか。

 それより、翁が持っている裏有給を分けてくれ。400日も500日も裏有給を持っていても、しょうがないじゃないか。

 血液検査の発表が明日にある。もう落ち慣れたよ。

 明日もダメ元でいよう。その方が気分的に楽だからな。

 いや、やはり合格したい。頼む、受かっていてくれ。

 果たして、明日、掲示板にわしの番号はあるのだろうか?

 以上、5月21日の記述はここまで。




 苦節、約3週間、ついに血液検査に合格した。でも、ギリギリの線だったくせぇ。ということは、合格最低点での合格だったのか。

 ギリギリの線といえば、金竜飛戦前のジョーのコミッションドクターの検診を思い出す。無茶な減量をしたため、コミッションドクターがギリギリの線で試合を認可したのである。

 ともかく、今日の午後で点滴は終わり。そして、リハビリでは歩行器を使うことになった。ただし、歩行器を使用する場合は監視役が必要で、ナースコールをしなければならない。

 歩行器になって何より嬉しいのが、監視役つきとはいえ、自力でトイレに行けることである。ベッドで大便器でクソをするのは、本当にハガかったからな。しかも、看護婦にさんざん迫害されたしよ。

 その日の夜9時にクソがしたくなった。それでナースコールをしたら、いつぞや大便終了と食事終了を聞き間違えて、わしに不機嫌攻撃をした看護婦がやってきた。

 そして、また不機嫌攻撃を食らった。ベッドからの起き上がった時に、「そういうふうには教わらなかったはずですよ」と、きつい言い方をされたのだ。

 女は1度嫌った人間を徹底的に嫌うというのは本当のようだ。しかし、嫌われた理由が納得いかん。

 翌々日、主治医の回診があった。うまくいけば2日に帰れるという。よし、これで、このハガい病院とおさらばの日が見えた。

 主治医は、GWも全部出ていると自ら言っていた。オペも幾つもこなしているし、よほど仕事熱心なのだろう。

 だから、看護婦の教育までに気が回らないのか。看護婦の質が悪いのに合点がいったぜ。

 ついに5月に入った。1日からは歩行器の監視役もつかなくなった。が、2日の退院は伸びた。

 主治医から6日に退院と、直接言われて吐いた。まだ病院のまずいメシに付き合わないといけないのかよ。

 看護婦との戦いは、わしの状態が良くなったので、ひとまず収まった。が、野菜攻撃のメシはもういいよ。

 3日にドクター(サークルの後輩)がまた見舞いに来てくれた。

 サークルの仲間で最初に来たのはドクター。そして、2度来てくれたのはドクターだけ。感謝の言葉が見つからない。

 ドクターは、週刊ポストが大相撲の暗部をまとめた単行本を持ってきてくれた。それを読んで、あらためて誰が大鳴門親方を抹殺したかを確信した。

 それと、曙があんな鼻血野郎だとは思わなかった。小錦をあんな形で裏切るとは…。

 長く苦しかった病院生活も、あと数日。「もういくつ寝ると正月」の気分である。

 次回の記述が入院日記の最終回となる。わしは、福本伸行と違って、無用に引っ張らん。

 以上、5月22日の記述はここまで。




 GW後半と入院日が重なったのは幸運であった。でなければ、有給をもっと消費して、夏の大会を見るのに影響しただろうからな。

 もっとも、GWにやることなどない。入院していようがいまいが、暇なのは同じだ。

 退院するまでの3日間は、ただ単に時間をやり過ごすだけであった。だからしてドクターが差し入れてくれた週刊ポスト編集の本は有難かった。

 ただ、リハビリの先生がカレンダー通りに休んだので、リハビリができなかったのがハガかった。したがって、退院後に歩くことがリハビリになる。まさにぶっつけ本番である。

 歩行器に監視役がつかなくなって、同室の優しそうなおじさんと話すようになった。その人は、わしがベッド上で動けない時に、わしのベッドを仕切るカーテンが開いていると、ニコニコしながらカーテンを閉めてるくれるような心根の優しい人であった。

 そのおじさんも、この病院の看護婦&看護助手の質の悪さに同調した。

 わしが、「看護助手のばばぁに足を手払いされた時はどなりつけてやろうと思いましたよ」と訴えたら、「いやいや。ケンカしなくて良かったよ。そしたら、彼女らは徒党を組んで意地悪してきたはずだよ」と言われた。

 確かに、そうだわな。それでも、あのばばぁ看護助手だけは許せん。

 その優しいおじさんは、わしの隣のベッドにいる若造のことを怒っていた。わしと反対隣の奴と四六時中しゃべっているからである。「ここは病院なんだから」と憤るのは尤もだ。

 退院の前日、すなわち、5月5日にシャワーの許可が出た。約1か月ぶりの入浴である。

 が、浴室に入って吐いた。脱衣場と風呂を仕切るドアが壊れかけていたのである。

 しかも、浴室が異常に狭い。仕事に情熱を燃やす主治医は、そういうのなど、どうでもいいのだろう。

 当然、シャワーは1人で浴びた。これがキムラ店だったら、キムラ嬢と一緒に浴びるのだが…。

 7日、いよいよ退院の日だ。そんなもん、当然、午前中でおさらばよ。

 退院時に、来週の月曜に診察に来るように言われた。院長の診察は午前中だというから、綺麗で割と親切だった若い看護婦に、「午前中って、何時から何時までですか?」と聞いた。

 そしたら、「ですから、午前中です」と言われて吐いた。その看護婦にはいいイメージを持っていたのだが、最後っ屁を食らってしまった。

 病院の外に出て、その病院の外容を初めて見て、また吐いた。

 なんじゃ、こりゃ。昭和の病院じゃねぇか。築何年なんだよ。

 それに小さい。看護婦どもが荒んでいるのも、それが一因かもしれんな。

 主治医が名医なのは疑いようがないが、この病院には2度と入院したくないわ。

 それにしても、今回は運が良かった。高田馬場の針の先生に神経ブロック注射のアドバイスをもらったこと、名医である主治医が日曜の朝5時にいてくれたこと、手術に至るまで菌に侵されていなかったこと。母親が守ってくれたのだろう。

 退院後、しばらく通院することになる。ここは患者離れがいいのか? 

 ともかく、1か月で退院できて良かった。途中、永久に入院したままかと心が折れたこともあったしな。

 最後に、主治医、見舞いに来てくれた同僚・友人、そして弟夫妻に、厚くお礼を申し上げたい。(了)


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入院日記