W杯前の大地震


 1960年5月、チリ沖でマグニチュード9.5の大地震が起こった。このチリ地震は史上最大の地震とされる。

 チリ地震の際には地球の自転が狂い、地球が撞木でつかれた寺の釣り鐘のように震えた。そして、その震えは何日も続いたという。

 ちなみに、マグニチュードの値が0.1違うとエネルギーが2倍違い、同じく1大きいとエネルギーは30倍になる。さらに、2違うと1000倍の差になる。

 チリ地震で発生した津波は各地に大きな被害を与え、地震発生から約23時間という予期せぬ速さで日本の沿岸に押し寄せてきた。津波の高さは三陸海岸では6mになり、日本全体で140人が犠牲となった。

 三陸海岸ではリアス式海岸が発達しているが、リアス式海岸は湾口が広く湾奥が狭いため、津波は湾口から湾奥に向かって波高を高めて侵入する。したがって、リアス式海岸が発達する海岸では、津波で大きな被害を受けてしまうのだ。
 
 津波が本当に怖いのは、津波が引いて行く時である。津波そのものも家を壊すなど脅威だが、引いて行く時は家も人も全てのものが沖合いにさらわれ、二度と戻ってこないのだから。

 チリ地震は首都サンチアゴの街を一瞬にして瓦解させ、サッカースタジアムはことごとく壊れてしまった。

 実は、チリは大地震の2年後にワールドカップを主催することになっていたのである。しかし、当然それは不可能と思われた。そのためワールドカップサッカーの開催を返上するようにFIFAに要請されたのであった。

 ここで立ち上がったのがチリサッカー連盟のディットボルン会長である。ディットボルン会長は、「地震で何もかも失った我々からワールドカップも取り上げようというのか。大会を絶対に成功させる」と、FIFAの役員の説得を始めたのである。

 もちろん、FIFAの役員の誰もが難色を示した。というのも、地震が起こった際、開催の辞退は規定路線にすらなっていたからであった。それを会長は復興計画を図示しながら役員の1人1人を説いて回った。そして、その熱意に打たれたFIFAの役員らは、チリにワールドカップ主催を返上させることを翻意したのであった。

 その後、スタジアムは国の総力を挙げて修正され、何とか開催にこぎつけた。しかし,開催に尽力したディットボルン会長は大会直前に急死し、大会を見ることなくこの世を去ったのであった…。開会式の黙祷では、会長の努力とその無念の思いに多くの国民が涙した。

 大会はブラジルがエースのペレを負傷で欠きながらも、ガリンシャ、アマリルド、ババらの活躍で2連覇を成し遂げた。そして、開催国のチリは準決勝でブラジルに敗れたものの、見事3位に輝いた。

「チリ代表の活躍とワールドカップの成功を是非とも会長に見せたかった」これは当時のチリ国民も誰もが思ったことであろう。


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