1954年のスイス大会の決勝戦は、ハンガリーと西ドイツの組み合わせとなった。ハンガリー絶対優勢の声のなか、試合はキックオフされた。
試合は、怪我を押して出場したエース・プスカシュとチボールのゴールで開始早々ハンガリーが2点をリード。実力で劣るチームが格上のチームに勝つには先取点を取って相手を混乱させるのが最上の展開だが、開始直後に西ドイツはいきなり2点のビハンド。これでもう勝負あったと誰もが思った。
しかし、ここで一次リーグでの西ドイツの作戦が功を奏することになる。西ドイツがハンガリーに実力で劣るのは明確であったので、西ドイツ首脳陣は一次リーグのハンガリー戦ではわざと主力をはずし、ハンガリーの手の内を見た。さらに2位になることで、準々決勝、準決勝を楽な相手と戦うことを目論んでいたのだ。この西ドイツの深謀遠慮が決勝戦に生きてこようとは、一次リーグが終わった時、誰が予想したであろうか。
準々決勝でスイス、準決勝でオーストリアに楽勝してきた西ドイツに比べて、南米の2強と死闘を繰り広げてきたハンガリーは明らかに疲弊していた。そして、第二次世界大戦の敗北に打ちひしがれる国民を勇気付けようと、西ドイツイレブンは燃え上がっていた。
0−2とリードされた西ドイツは気力を振り絞り、前半のうちに2点を決め追いつく。後半に入るとハンガリーは攻勢に転じたが、決定的なシュートはことごとくクロスバーにはじかれた。また、相手GK・ツレクの攻守にも幾度となく阻まれた。
そして、ハンガリーの猛攻に耐え続けた終了5分前、西ドイツ・ラーンのシュートが名GK・グロスチを破った。
残り5分を切り、ハンガリーは死力を尽くして反撃に出た。残り2分、チボールの同点シュートが決まり、同点と思いきや、不可解なオフサイドの判定で取り消され、ハンガリーは力尽きたのだった。
試合後、ハンガリーの選手は、悪びれずに西ドイツの選手に握手を求めた。そして、降りしきる雨のなか、81歳のジュール・リメが西ドイツの主将・フリッツ=ワルターにジュール・リメ杯を手渡した。
※この栄光のキャプテンの死去を悼み、日韓ワールドカップでドイツイレブンがアメリカ戦に喪章をつけて臨んだ。
西ドイツに不覚をとったものの、その後もハンガリーは快進撃を続け、次回のワールドカップでの活躍が期待された。しかし、チームは思わぬことから崩壊した。それは、1956年のハンガリー動乱であった。
ご存知のように、ハンガリーは第二次世界大戦後に社会主義化され、ソ連傘下に組み込まれた。これに納得いかないブダペスト市民が1956年10月23日、反ソ暴動を起こしたのであった。
翌日、速攻でソ連軍が首都のブダペストに雪崩込み、市街戦が繰り広げられた。混乱の中、ナジ=イムレが首相に復活し、ソ連との間に自由の保障とソ連軍の撤退を約束させた。
しかし、ソ連はその約束を反古にし、31日、東部国境からハンガリーに侵入し、全土を制圧する。そしてナジは逮捕され、58年に公開処刑に処せられた。ここにハンガリーの自由化の夢はついえたのであった。
このハンガリー動乱に伴い、エースのプスカシュなどの主力の多くがスペインに亡命した。ここに、‘マジック・マジャール’は永遠に過去のものとなってしまったであった。
次回に続く
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