幻のユーゴ・ドリームチーム:前編


 1990年のイタリアワールドカップ。その大会で最も技巧的で美しいサッカーを展開したのはユーゴスラビアであった。その中心は若き日のスコイコビッチ。時に25歳。

 そして、そのチームには、レギュラーではなかったものの、プロシネツキ、サビチェビッチ、パンチェフ、スーケル、ボクシッチ、ヤルニといった若き天才プレーヤー達がいた。さらに、ワールドカップ直前の暴行事件でベンチ入りから漏れたボバンのほか、ユーゴビッチ、ミハイロビッチ、ミヤトビッチら才能あふれる若手も、代表候補に名を連ねていた。

 そうしたことから、1990年のワールドカップでのベスト8の好成績も、きたるべきユーゴ大躍進のほんの序章に過ぎないと思われていた。しかし、その夢は2年も続かなかった…。

 ユーゴスラビアは、第二次世界大戦後、パルチザンの英雄・ティトー率いる共産党のもとで6つの共和国の連邦国家となった。しかし、絶大な求心力があったティトーが1980年に死去して以来、各民族の民族主義が台頭してきた。

 というのも、ユーゴスラビアには、ユーゴスラビアを事実上支配していたセルビア人のほか、クロアチア人、スロベニア人、モンテネグロ人、マケドニア人などがおり、それぞれが共和国を持っていたからである。また、ボスニア=ヘルツェゴビナ共和国には多くの民族が混在していた。

 このユーゴスラビアにおける複雑な民族構成は、代表チームにも影を落としていた。代表選手の誰もが他の選手の出自を把握しており、クロアチア人のボバンなどは、「俺はユーゴスラビアの代表とは思ったことは一度もない」と公言していたほどであった。

 1980年代後半からの旧ソ連・東欧の政治変革は、程なくユーゴスラビアに波及してきた。しかし、この間もユーゴスラビア代表は1992年のスウェーデンでの欧州選手権出場を目指して予選を戦っていた。そして、予選を圧倒的な強さで勝ち抜いた。以下は予選最終戦の対アイスランド戦の先発メンバーである。

GK イビコビッチ(クロアチア)
DF スタノイコビッチ(セルビア)
   ナイドスキー(マケドニア)
   ビリッチ(クロアチア)
   ヤルニ(クロアチア)
MF ボバン(クロアチア)
   ヨジッチ(セルビア)
   プロシネツキ(クロアチア)
   サビチェビッチ(モンテネグロ)
FW パンチェフ(マケドニア)
   ミハイロビッチ(セルビア)
   
 ストイコビッチは不出場で、スーケルは途中出場であるものの、MFとFWはまさに夢のような布陣である。試合は当然の如くユーゴスラビアが7−1で圧勝した。しかし、これが最後の「ユーゴ・ドリームチーム」の姿であったとは…。

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