ワールドカップにおいて開催国が有利なのはいうまでもない。これまでも1966年のイングランド、1974年の西ドイツ、1998年のフランスなどが開催国となった時に優勝している。開催国が強い要因には、FIFAがいろいろと開催国に便宜を図ることがあろう。それをフルに利用したのが1978年のアルゼンチンの優勝であった。
当時アルゼンチンはまだ1度もワールドカップの優勝がなかった。その一方、南米のライバル・ブラジルはすでに3回優勝しており、隣国のウルグアイも2回の優勝を誇っていた。それが悔しくならないアルゼンチンは、地元開催のこの大会は石にかじりついても優勝したかったのだ。
そして、「外国人には丁寧に応対しろ」、「タクシーの運転手のヒゲは厳禁」との通達も出し、アルゼンチンは国を挙げてワールドカップを成功させようと意気込んでいた。また国民も、「ワールドカップが開催できるのは100年に1度。生きている間にもう二度とこの大会を見ることができない」と、大いなる期待を持ってこの大会を迎えたのであった。
しかし、一次リーグの組み合わせは、アルゼンチンにとってとんでもないことになってしまった。
通常なら何らかの力が働いて一次リーグは地元有利の組み合わせになるのであるが、なんとイタリア、フランス、ハンガリーというヨーロッパ列強と同グループになってしまったのである。
これは、西ドイツ、ポーランド、メキシコ、チュニジアの組と比較するまでもなく、きつ過ぎる組み合わせであった。メノッティ監督も、「この不運が試合でも続かないことを祈るよ」と弱気になったのもしょうがないだろう。
※当時は参加国が16であり、そのうちヨーロッパが実に10も占めていたので、1つのグループにヨーロッパが3か国も入るグループが2つもあった。
当時の一次リーグの組み合わせは、最初にシード4か国が決められてから他の国が各組に振り分ける方式であった。
まず、地元のアルゼンチン、前回優勝の西ドイツ、実績bPのブラジルのシードが文句なく決まった。しかし、残り1つが決まるまでが大変であった。
本来なら前回準優勝のオランダですんなり決まるはずなのだが、「アルゼンチンにはイタリア系が多いから、イタリアをシード国に」というアルゼンチン協会の横槍が入ったことから話がややこしいことになった。
数時間議論した結果、オランダを第四のシード国とする代わり、イタリアをアルゼンチンと一次リーグで同組にすることで決着したのであった。こういうわけのわからない結論は今では考えられない。
というわけで、アルゼンチンは強豪揃いの一次リーグに臨んだわけであるが、ここで審判のえこひいきの恩恵に授かることになる。
初戦のハンガリー戦では、ハンガリーの主力のトロチク、ニラシが相次いで退場させられる。その恩恵もあって、アルゼンチンはなんとか2−1で逆転勝ちを収めた。
第2戦は若き将軍・プラティニ率いるフランス戦であった。まず相手DF・トレゾールのハンドによりPKを得る。ビデオを見る限り、故意のハンドではないようだったが…。その後同点に追いつかれたが、ルーケのロングシュートでなんとか2−1で逃げ切った。しかし、釈然としてないアルゼンチンの勝利であった。
とにかくこの2戦の場内の雰囲気は異常であった。アルゼンチンが少しでも攻勢に出ると大歓声があがり、相手の攻撃になると観衆全員が息を飲んでいたのがわかるほど静まり返っていた。そうしたことからも、もしアルゼンチンに不利な判定をしたら、どんな目に遭わされるかわからない感があった。
こうしてアルゼンチンは2連勝し、イタリアもフランス、ハンガリーを連破したことから第3戦を待たずして、両チームの二次リーグ突破が確定したのであった。
アルゼンチンは一次リーグを1位で通過すれば、二次リーグをブエノスアイレスに居座って戦えるのでイタリア戦を勝ちにいった。一方、イタリアのベアルツォット監督はアルゼンチン戦は主力を温存する作戦を持ったが、これにロッシらが猛反発し、イタリアもベストメンバーで臨むこととなった。試合は実力に勝るイタリアが1−0で勝ったが、これによって二次リーグの組み合わせが大きく変わったのである。
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