当時の二次リーグは、4チームずつ2組みに分け、それぞれが総当たり戦を行う。そして、1位になったチーム同士が決勝戦を戦い、2位になったチーム同士が3位決定戦をする方式であった。つまり、二次リーグで1位にならないと優勝はないのであった。
アルゼンチン大会の二次リーグは、A組がイタリア、西ドイツ、オーストリア、オランダ、B組がアルゼンチン、ポーランド、ブラジル、ペルーになった。こうしてみると、A組の方がきつい組み合わせと言えよう。
B組の第1戦は、アルゼンチン−ポーランド、ブラジル−ペルーであった。
試合は、まずアルゼンチンがケンペスのゴールで1点を先取する。しかし、その後、完全にゴールかと思われたボールをDFのタランティーニが手で掻き出し、ポーランドにPKが与えられた。如何に地元びいきの審判も、これではPKを与えざるを得ない(しかし、タランティーニはお咎めなし)。
観衆は固唾を飲んでPKを見守ったが、ポーランドのキャプテン・ディナがキーパーの正面に蹴ってしまい、アルゼンチンは命拾いする。その後、ケンペスがもう1点取り、アルゼンチンは2−0で第1戦を勝利で飾ったのであった。
一方のブラジルも、第1戦は格下のペルーを3−0と一蹴した。なお、この試合でジーコがPKにより、ワールドカップ初のゴールを挙げている。
そして、二次リーグ第2戦でアルゼンチンとブラジルが顔を合わせた。試合は激しい攻防を繰り広げたが、両GKのファインプレーもあり、スコアレスドローに終わった。この結果、アルゼンチンとブラジルの1位争いは、第3戦の結果次第となったのである。
こうした場合は、第3戦は同時刻にキックオフされるのが通常であり、当初は同時刻に開始されることになっていた。しかし、ここにまたしてもアルゼンチン協会が横槍を入れてきたのだ。
つまり、先にブラジル−ポーランドを行い、その2時間後にアルゼンチン−ペルー戦をするという意向を主張したのであった。
当然のことながら、後に試合をやった方が、何点取ればいいかわかって戦えるので有利になる。こうした主張は通常なら即却下であるが、この時はなぜか認められ、アルゼンチン協会の申し出通り、時差を設けてニ次リーグ最終戦が行われることになったのである。
ブラジル−ポーランドはアルゼンチン全国民がポーランドを応援した。前半終了間際にポーランドがラト−のゴールで1−1に追いついた時には、場内が大歓声に包まれたほどであった。
しかし、決勝進出に意欲を燃やすブラジルは後半2点を加え、3−1でポーランドを降したのであった。
ブラジルはペルーに3−0、ポーランドに3−1で勝利したので、ポーランドに2−0で勝っていたアルゼンチンは、最終戦のペルー戦は4−0以上で勝たないと、決勝戦に行けないということになった。
かなりの格下でも4−0で勝つことは難しい。ましてや、ワールドカップで二次リーグに進出してくるようなチームに4点差以上で勝つという命題は限りなく不可能と思われた。
実際、硬さの目立つアルゼンチンはなかなか点を取れなかった。それどころか、前半20分までに際どいシュートを2本浴び、あわやペルーが先取点というシーンもあった。しかし、この苦境を救ったのが、前半の半ば過ぎに先取点を挙げたケンペスであった。
ケンペスの得点を機にアルゼンチンは点を重ね出す。前半終了にタランティーニが決め2−0になったが、この時の場内の興奮は凄まじかった。
アルゼンチンが二次リーグを戦ったロサリオは、アルゼンチンの中でも特に熱狂的な土地柄であり、もしペルーが下手に抵抗してアルゼンチンが4−0未満の勝利だったら、ペルーイレブンの身が危なかっただろう。結局、試合は6−0でアルゼンチンが大勝し、決勝戦に進出することとなったが、この試合は大いに物議を醸すこととなった。
ようやくの思いで決勝進出を果たしてアルゼンチンを待っていたのは、前回準優勝の雪辱を期すオランダであった。
今回はスーパースターのクライフは不参加であったが、ニースケンス、レンセンブリンク、クロル、レップ、ハーンなど前回のメンバーを中心とするアタッキングサッカーは、アルゼンチン国民にとって大いなる脅威として映った…。
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