ドイツとオーストリア。ともにドイツ人の国であり、ドイツ語が公用語であるが、信仰宗教が微妙に違う。
ドイツはプロテスタント発祥の地であるのに対して、オーストリアはカトリック教徒のハプスブルグ家の影響によりカトリック教徒が多い。
また、19世紀にはドイツの前身と言えるプロイセンとオーストリアで戦争も行われた。そうしたことから両国は決して一衣帯水ではない。
1938年のフランスワールドカップにおける優勝候補筆頭は、ブンダー・チーム(脅威のチーム)と言われ、当時の史上最強チームであったオーストリアと目されていた。
しかし、1938年3月、オーストリアはヒトラーのドイツに併合されてしまう。国自体がなくなってしまったのだから、オーストリアの大会への参加するは取り消された。
そこで、ドイツチームはオーストリアから有力選手数名を自チームに引き入れるが、そんなチームが機能するはずもなく、ドイツは早々と敗退する。
オーストリアの悲劇はこれに留まらなかった。エースFWのユダヤ系オーストリア人・シンデラーが仲間の密告により、ゲシュタボに追い詰められ、恋人の隠れ家で自殺してしまったのだ。
以上のことから、オーストリアにとってドイツは仇敵ともいえる存在になったのである。
※実は、日本もフランスワールドカップへの参加が決まっていた。当時、アジアで独立国であったのは、日本、中華民国、モンゴル、タイ、サウジ、イラン、イラクなどであったが、当時の国力からして、サッカーに興じていられるのは日本くらいなものであった。
そのため、日本は予選免除でアジア代表としてワールドカップへの参加が決まっていたのである。しかし、ワールドカップが開催される1938年の前年の1937年7月に起こった日中戦争が激しくなり、辞退を余儀なくされたのであった。
そして、オーストリアにとってリベンジのチャンスは1954年に巡ってきた。しかも、舞台は両国の隣国であるスイス。
しかし、オーストリアの意気込みも空しく、決勝トーナメント準決勝で、当時の西ドイツに1−6の大敗を喫してしまった。
そして、月日は流れて1978年。この年はアルゼンチンでワールドカップが開催され、両者は二次リーグの最終戦で顔を合わせた。
両者が入った二次リーグA組にはイタリア、オランダが同居し、総当たり戦で1位になったチームが決勝戦に進出するという厳しいものであった。
最終戦まで西ドイツはイタリアに0−0、オランダに2−2の二引き分け。オーストリアはオランダに1−5、イタリアに0−1で連敗していた。
したがって、西ドイツはオーストリアに大勝すれば決勝進出が、イタリア−オランダの結果次第で可能であった。
ところが、この試合で西ドイツは打倒・西ドイツに燃えるオーストリアの死に馬キックに遭ってしまったのである。
試合はシーソーゲームとなり、2−2からオーストリアのエース・クランクルが決勝点を挙げると、点を取ったクランクルは自軍ベンチまで走って行き、コーチや控えの選手と抱き合うという喜びようであった。
それだけオーストリアにとって西ドイツに勝つということは意義深いものであったのである。それが次回のスペインワールドカップで最悪の談合試合の片棒を担ぐことになるとは…。
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