中東紛争・後編 
                                                         

   1948年、ユダヤ人はかつての祖先の地・パレスチナに自分達の国家を建国した。しかし、彼らの夢の実現には、それまでパレスチナに住んでいたアラブ人が難民となる犠牲があった。

 が、自分達こそが歴史の被害者であるという意識に凝り固まるユダヤ人にとっては、そうしたことはまったく眼中になかったのである。そして、一発殴られたら十発殴り返すという政策を展開していった。

 イスラエルが強気の姿勢を示した理由の一つにアメリカとの親交があった。世界におよそ1000万人いると言われるユダヤ人の半数がアメリカにおり、しかもその多くが知識階層に属する。ニューヨークタイムズ、ワシントンポストも上層部はユダヤ人によって占められている。また、ハリウッド製作者にもユダヤ人が多い。そのため、ハリウッド映画には、ナチスドイツによるユダヤ人の迫害を扱った映画が数多い。世界貿易センタービルはアメリカ在住のユダヤ人を象徴する建造物であり、そのためアメリカ人およびユダヤ人を憎悪するアルカイダの標的にされたと言われている。

 イスラエルのアメリカを後ろ盾とした強弁な姿勢は、パレスチナ紛争の大きな原因となり、1956年、1967年にも中東戦争が勃発した。これらはいずれもイスラエルの圧勝に終わった。

 これに業を煮やしたアラブ諸国側は、1973年の第四次中東戦争で史上初めて石油を戦略として用いてきたのであった。すなわち、イスラエルを支持する国に対して、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)が石油の禁輸措置を採ったのであったのである。そのため石油の価格は急騰し、世界の経済は大混乱した。この石油危機は日本にも波及し、日本の経済は大打撃を受け、日本の高度経済成長は終焉を迎えたのであった。

 第四次中東戦争までアラブ側のリーダー格はエジプトであった。しかし、時のエジプト大統領のサダトもイスラエル側も、お互いを軍事的に制圧することは不可能だと悟った。そこで両国は、1978年にアメリカ大統領カーターの仲介により、アメリカの避暑地キャンプ・デーヴィッドで和平条約を結んだ。しかし、その3年後、アラブの裏切り者として、サダト大統領は暗殺された。そしてエジプトに代わって、PLO(アラブ解放戦線)がパレスチナ解放勢力として表舞台に登場してきたのである。

 PLOは、パレスチナ人の間に「結局、アラブ諸国はパレスチナ人のために何もしてくれない」という声がわき上がるなかで、アラブ諸国によって創設された。そして、1968年にアラファトがPLOの議長に選出された。PLOは事実上独立国家と変わらない機能を持ち、とくに1980年前半において、しばしばイスラエルと小競り合いを繰り返した。

 しかし、PLOが1980年代半ば以降から穏健路線を取ると、中東問題は沈静化していった。そして、1993年、ホワイトハウスでイスラエルとPLOは歴史的和解に到達し、イスラエルの占領地であったガザ地区とヨルダン川西岸のエリコでPLOの暫定自治が行われることになった。

*中東和平を進めたことでPLOのアラファト議長はノーベル平和賞を受賞したが、アラファトの単独インタビューで、小宮悦子が「テロリストのリーダーとしての心境は?」と質問して、アラファトを激怒させたという情けないエピソードがある。

 その後、イスラエルで右派政権の発足を機に、さらなるパレスチナ和平交渉は停滞してしまった。タカ派のシャロンがイスラエルの首相に就任すると、パレスチナ人の投石に対し武力を行使、軍がパレスチナ自治区に侵攻するなど時代が逆戻りしつつあることが懸念されている。

 中東紛争とは直接関係ないが、最後にモサドについて述べたい。モサドはイスラエルの対外情報機関で、その組織力はCIAやかつてのKGB以上と言われている。モサドの名を一躍有名にしたのが、ユダヤ人移送の指揮を執ったナチスの戦犯アイヒマンの逮捕である。民族の恨みに燃えるモサドの執念の捜索によって南米で逮捕されたアイヒマンはイスラエルに連行され、人道上の罪で絞首刑に処されたのであった。


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