硫黄島に死す
         

  1932年に開催されたロサンゼルスオリンピックにおいて、最も異彩を放ったのは、西竹一中尉の馬術・大障害の金メダルであった。馬術は欧米が本場であり、日本人は出る幕がないと思われていたが、彗星のごとく現れた西中尉が幾多の欧米の名手を制して優勝したのだ。西が愛馬・ウラヌス号に乗った姿は気品にあふれ、欧米人からも、「バロン・西」と呼ばれ、尊敬を一身に集めた。

 馬術大障害のオリンピック連覇を狙って、西竹一は勇躍ベルリンに乗り込んで来た。時に1936年。しかし、そこには、オリンピックを国威高揚の道具と考えるナチスドイツの陰謀が西を待っていた。馬が障害を超えて着地する地点に、わからないように穴が掘ってあったのだ。このことを知らされていたのはドイツとオランダの選手のみ。当然の如く西はこの罠にはまり、連覇はおろか、メダルも獲得できなかった。だからといって西の名声が下がるということはなかった。

 それから時は流れて1944年。西は硫黄島にいた。硫黄島は、小笠原列島にある面積24平方kmの小島であるが、この島が日米両軍の激闘地の一つとなった。この島における日米の攻防は熾烈を極め、アメリカ軍の犠牲者の方が日本軍の犠牲者よりも多かったくらいアメリカ軍も苦戦を強いられた。しかし、次第に形勢はアメリカ軍優位となり、硫黄島においても日本軍の敗戦が決定的となった。

 そして西隊長率いる中隊もジャングルに追い込まれ、玉砕を待つばかりとなった。そこにアメリカ軍からスピーチが流れた。「バロン西、バロン西、我々はあなたがそこにいるのを知っている。我々はあなたを尊敬している。死んではいけない。生きて出てきてほしいと、心からお願いする。」

 しかし、それからほどなくジャングルの中で銃身自決を遂げた西中尉が発見されたのだった。


 太平洋戦争の敗北から50年以上の月日が流れ、「玉砕」という言葉は死語になったと聞く。また当時の同盟国にアメリカを挙げる女学生もいる。南の島々で命を散らせた人達の魂がつくづく虚しい。


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